体操伝習所
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体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ、旧字:體操傳習所)は、1878年(明治11年)10月、東京府神田区(現在の東京都千代田区)に設立された文部省直轄の体育教員・指導者の養成機関。
- ^ 『文部省第七年報』付録「体操伝習所年報」1879年、388頁「規則」より。
- ^ 1878年『文部省第六年報』では設立趣旨を次のように説明している。「本邦教育ノ方法ハ専ラ智育ノ一方ニ傾向シテ体育ノ諸術ハ概ネ之ヲ放着シテ復タ其利害ヲ唱フル者ナキカ如シ故ヲ以テ其弊ヤ漸ク心身両全ノ道ヲ欠キ青年子弟ノ気力ヲシテ次第ニ減縮セシメ又随テ国家ノ元気ヲ衰頽セシムルニ至ルハ蓋シ必然ノ勢ナリ(中略)抑々従来府県ノ諸学校ニモ亦此科ノ設ナキニアラスト雖モ之ヲ要スルニ多クハ軍式ノ体操ニシテ夫ノ体力ヲ補養シ心気ヲ旺盛ニシテ学業進歩ノ益ヲ収ムルニ至リテハ其功未タ充分ナラサル所アリ又世人或ハ撃剣等ノ武技ヲ以テ至良ノ術トナシ之ヲ学校ニ施行セント欲スル者アリト雖モ是レ亦特ニ防護ノ主義ニシテ未タ以テ身体ノ発育ヲ主トスル完全ナル体育法ニ比スヘカラサルナリ望ラクハ此ノ完全ナル体操学ノ良績ヲ実際ニ得テ将来我カ国民ノ心体ヲ育成シ以テ全国ノ元気ヲ振起セシメンコトヲ」(19-20頁)。当初「体操」といえば、幕末に移入された西洋の「軍式ノ体操」か、文武両道としての「撃剣等ノ武技」であった。それに対し、体操伝習所は普通教育における「体育」=運動を手段とする身体育成の方法を追究・確立することを目的としていた。
- ^ 第12条にて「現役中殊ニ技芸ニ熟シ行状方正ナル者及ヒ官公立学校(小学校ヲ除ク)ノ歩兵操練科卒業証書ヲ所持スル者ハ其期未タ終ラスト雖モ帰休ヲ命スルコトアル可シ」と規定され、必然的に小学校を除く官公立学校での「歩兵操練科」実施が求められた。
- ^ 当初は渋川流柔術の渋川半五郎ママに加え、陸軍省出仕富田正直及び警視庁巡査部長久富鉄太郎を兼勤させ(翌年11月迄)、さらに生理学的見地から東京大学医学部より三宅秀、ベルツ、スクリバを招き柔術取調を委嘱したが、11月以降は、柔術4流派(天神真楊流・戸田流・起倒流・渋川流)、剣術4流派(真影流・天神傳無敵流・北辰一刀流・田宮流居合術)について調査開始。
- ^ 同年11月11日には、福岡県士族後備軍躯員歩兵軍曹・田代貢、栃木県平民・栗原藤四郎の2名が歩兵操練科の教員助手として雇われた。
- ^ これらは暫定的な復申であり、末尾では「抑々本件ノ調査タル固ヨリ重要ノ件ニシテ其関係ノ及フ所甚タ大ナルヲ以テ更ニ審査ニ付スヘキ事項蓋シ少シトセサルナリ然レトモ此等ハ後日ノ計画ニ譲リ時ニ臨ミ諸般ノ情況ヲ考覈シテ逐次ニ精密ノ調査ヲ遂ケント欲スルナリ」と結んでいる。
- ^ 『官報』明治18年9月10日 官庁彙報欄。
- ^ 『官報』明治18年11月18日 達欄「文部省第拾三号」及び、『官報』明治18年11月19日学事欄「体育法ノ改良」。
- ^ 木下秀明『兵式体操からみた軍と教育』80-85頁。
- ^ 『官報』明治18年11月26日 学事欄「生徒行軍」。
- ^ 『官報』明治18年12月18日 学事欄「体操修業員伝習要旨及教科」。
- ^ 『官報』明治18年12月23日 学事欄「学校生徒及伝習員行軍」。
- ^ 『官報』明治19年3月27日 教育事項欄「体操伝習所舎則」。
- ^ 『東京高等師範学校沿革略史』(1911年)によれば、高等師範学校体操専修科は「生徒を募集すること僅に一回にして、明治二十年七月其の卒業と共に之をも停止したり」34頁。巻末年表には明治20年7月「体操専修科卒業生二十二名を出す」とある。
- 1 体操伝習所とは
- 2 体操伝習所の概要
- 3 歴代主幹
- 4 外部リンク
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