ドン・ブラッシンゲーム
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ドン・リー・ブラッシンゲーム(Don Lee Blasingame, 1932年3月16日 - 2005年4月13日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州コリンス出身の元プロ野球選手・コーチ・監督。
- ^ a b c d e f g h i j 『週刊プロ野球データファイル』2012年65号、ベースボール・マガジン社、P23-P24
- ^ 南海ホークス『南海ホークス四十年史』294ページ
- ^ 【ありがとう八十年(53)】広岡達朗、捕球&送球の基本練習
- ^ [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P46
- ^ なんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」での展示では、2021年のリニューアル前まで1970年の出来事としてブレイザーのヘッドコーチ就任と、主に作戦面での采配を行ったことについての記述があった。これは、同時に監督に就任した野村克也についての記載や展示が野村沙知代から一切認められなかったための措置だった。野村および沙知代の没後、実子の野村克則が展示を許可したことから、2021年のリニューアルを機会に野村についての展示が行われている。
- ^ a b 野村克也著、弱者の兵法―野村流必勝の人材育成論・組織論、アスペクト文庫、2011年、P144-P145
- ^ 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P134
- ^ a b c d 野球バカは死なず、P187-P189
- ^ オールスター・ベストナイン選手でも容赦ないトレード【真弓明信さんコラボ】 - YouTube
- ^ 【岡田彰布・真弓明信 登場】優勝メンバーが登場!真弓と岡田の阪神入団秘話!エース小林繁の存在とは!? - YouTube
- ^ 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)P89
- ^ ただし、岡田の著書「頑固力」では後年、ブレイザーの知人を介して「(岡田を)憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから、余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこの(ブレイザーの)メッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」とも記している。
- ^ 「よき敗者」中西太、ブレイザー監督途中退陣…緊急避難で後任に
- ^ 【虎番疾風録第3章】(6)ブレイザー、まさかの手ぶら来日
- ^ 【虎番疾風録第3章】(7)人脈なし?ブレイザーへ不信感
- ^ 江本孟紀「『ベンチがアホやから』事件の真相と引退を決めたもう一つの理由」エモヤンのわが野球人生(4),AERA
- ^ 【虎番疾風録第3章】(26)岡田使わぬ監督に抗議殺到(1/2ページ) - 産経ニュース
- ^ 【虎番疾風録第3章】(27)ファン思い受け 小津球団社長、動く
- ^ 「岡田か、ヒルトンか」阪神ブレイザー監督の誤算(中編)
- ^ この件についてはブレイザーも了承していた。
- ^ 【虎番疾風録第3章】(2)起用法で対立? 不可解な退団理由
- ^ 【1980年】新人・岡田彰布の起用をめぐり大混乱。阪神・ブレイザー監督、途中退団/プロ野球回顧録 - 野球:週刊ベースボールONLINE
- ^ 【内田雅也の猛虎監督列伝(20)~第20代 ドン・ブレイザー】「岡田使え」で退団した信念の指揮官
- ^ a b c 南海ホークス栄光の歴史 1938-1988、ベースボール・マガジン社、2012年、80-81頁
- ^ 南海電鉄3大事故による賠償、大阪南部・和歌山の南海沿線の人口・輸送人員の伸び悩みなどによる南海グループの経営環境の変化や、黒い霧事件・球団売却の頻発などの様々な要因によるパ・リーグ全体の人気低迷などが影響した。
- ^ 読売新聞『追悼抄』。
- ^ 駐米スカウト契約のお知らせ - 2010年5月22日
- ^ 野村克也「野球は頭でするもんだ<完全版>(上) (朝日文庫)」朝日新聞出版、2010年4月7日、ISBN 4022616601、p224。
- ^ a b c 野村、p225
- ^ a b 【スポーツ言いたい放題】「Dokaben」フォーエバー、英字紙にも追悼文
- 1 ドン・ブラッシンゲームとは
- 2 ドン・ブラッシンゲームの概要
- 3 詳細情報
- 4 関連情報
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