ドゥルダカとは? わかりやすく解説

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ドゥルダカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 13:39 UTC 版)

ドゥルダカ・ノヤンモンゴル語: Durdaqa noyan, ? - ?)とは、13世紀後半から14世紀初頭にかけて大元ウルス及びカイドゥ・ウルスに仕えたモンゴル人。「[クビライの]御家人(ノコル)で彼より地位の高い者は誰もいなかった」と称されるほど高位の人物であったにもかかわらず、クビライと対立してカイドゥ・ウルスに亡命し、クビライの死後再び大元ウルスに投降したことで知られる。


  1. ^ 訳文は志茂2013,760-761頁より引用
  2. ^ 蒙兀児史記』巻157宰相表第6の至元十五年條
  3. ^ 『元史』などの漢文史料でモンゴル高原で軍を率いるドゥルダカの存在について言及され始めるのは至元21年の記事(『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年六月]甲戌……賜朶魯朶海札剌伊児所部貧軍」)からである。なお、この記事においてドゥルダカが「ジャライル(札剌伊児)」の軍を率いていたと記されることからドゥルダカをジャライル出身と見る説もある(『蒙兀児史記』)が、やはり『集史』に従ってコルラウト部族出身とするのが正しいと考えられる(松田1983,35-36頁)
  4. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「牙忽都、祖父撥綽、睿宗庶子也……二十一年、命与禿禿哈同討海都、牙忽都先進、邏得諜人、知其虚実、直前衝敵陣、破其精兵、海都敗走、得所俘掠軍民而還。朶児朶哈上其功、詔賜鈔幣・鎧甲・弓矢」
  5. ^ 松田1983,37頁
  6. ^ 『元史』巻128列伝15土土哈伝,「二十三年……海都兵犯金山、詔与大将朶児朶懐共禦之」
  7. ^ 「五河屯田」とも記される。近年の調査により、現モンゴル国ゴビアルタイ県ジャルガラン・ソム北方25kmに位置する「タバン・ゴル(モンゴル語で「五つの河」を意味する)」という地に当たるものと明らかになっている(村岡2003,5-8/47頁)
  8. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年春正月]甲申、忽都魯言『所部屯田新軍二百人、鑿河渠于亦集乃之地、役久功大、乞以傍近民・西僧餘戸助其力』。従之。憨答孫遣使言『軍士疲乏者八百餘人、乞賑贍、宜於朶魯朶海処験其虚実』。帝曰『比遣人往、事已緩矣、其使贍之』」
  9. ^ 松田1983,37-38頁
  10. ^ 『元史』巻128列伝15土土哈伝,「二十四年、諸王乃顔叛於東藩、陰遣使来結也不干・勝剌哈王、獲諜者得其情密以聞。諸朝請召勝剌哈以離之、他日勝剌哈為宴会邀二大将、朶児朶懐将往王曰事不可測、遂不往、勝剌哈計不得行。未幾、有詔召勝剌哈王曰、此東藩之人由東道是其欲也、将不可制言於北安王命之西行。或言、也不干将反者軍吏請奏而図之王曰、不可緩也。身為先駆、引大兵前窮晝夜之力渡禿兀剌河、与也不干戦大敗之」
  11. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年八月]癸酉、朶児朶海獲叛王阿赤思、赦之」
  12. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「[至元]二十七年、海都入寇。時朶児朶哈方居守大帳、詔遣牙忽都同力備禦。軍未戦而潰、牙忽都妻帑輜重駐不思哈剌嶺上、悉為薬木忽児・明理帖木児所掠。牙忽都与其子脱列帖木児相失、独与十三騎奔還」
  13. ^ 松田1983,39頁
  14. ^ 松田1983,40頁
  15. ^ 杉山1996,160-163頁
  16. ^ 何故か『元史』成宗本紀には3王侯の投降を記す記事がないが、元貞2年9月28日條には不自然な位置に「カイドゥとウルスブカ(海都兀魯思不花)」という単語が挿入されており(『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年九月]甲午……海都兀魯思不花部給出伯所部軍米万石」)、ここには何らかの叙述の欠落があって投降はこの頃に行われたのではないかと推測されている。なお、3王侯の投降が元貞2年秋頃にあったことは『元史』トトガク伝などでも確認される(松田1983,30頁)
  17. ^ 3王侯の投降地について、『元史』トトガク伝では「玉龍罕界」としか記されないが、トトガク伝の原史料にあたる「句容郡王世績碑」にはより詳細に「金山之玉龍海」と記されており、アルタイ山脈方面にあった地であると分かる(松田1983,30頁)
  18. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「二年秋、諸王従海都者皆来降、辺民驚動、王帥兵金山之玉龍海、備之資饋畢給民不擾、親導薬木忽児等王……」
  19. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「大徳元年、叛王薬木忽児・兀魯速不花来帰。博羅歓聞之、遣使馳奏曰『諸王之叛、皆由其父、此輩幼弱、無所与知。今茲来帰、宜棄其前悪、以勧未至』。帝深以為然」
  20. ^ 佐口1971,164-165頁
  21. ^ 陳宜甫『秋巌詩集』巻下の「元貞丙申十月、扈従晋王、領降兵入京。朝観、奏凱、引降騎、長歌、入帝都」という記述による(松田1983,47頁)
  22. ^ 永楽大典』所収の「駅站」には「元貞三年の前年=3王侯の投降があった歳」にモリン道で駅馬の使用が頻繁にあったため馬不足に陥ったとの記録があるため(松田1983,47-48頁)
  23. ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「玉哇失、阿速人。……成宗時在潜邸、帝以海都連年犯辺、命出鎮金山、玉哇失率所部在行。従皇子闊闊出・丞相朶児朶懐撃海都軍、突陣而入、大破之。復従諸王薬木忽児・丞相朶児朶懐撃海都将八憐、八憐敗」
  24. ^ 松田1983,36-37頁
  25. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年五月]壬辰、加知枢密院事朶児朶海太傅……」


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