ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエールとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエールの意味・解説 

ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/20 16:24 UTC 版)

ジャン=ピエール=アントワーヌ
・タサエール
Jean-Pierre-Antoine Tassaert
タサエール作「画家と彫刻家」
生誕1727年
アントウェルペン
死没1788年1月21日
ベルリン

ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエール(Jean-Pierre-Antoine Tassaert、1727年[1] - 1788年1月21日)はベルギー生まれの彫刻家でフランスやプロイセンで働いた。

略歴

アントウェルペンの美術家の家で生まれた。アントウェルペンで修行した後、15歳の時兄弟の一人とロンドンで修行した後、1744年にパリに移り、彫刻家、ルネ=ミシェル・スロッツ(別名、ミケランジュ・スロッツ)の工房で働いた[2]。1758年にミニアチュール画家のMarie-Edmée Moreau (1736–91) と結婚した[2]。1764年にスロッツが死去した後、独立して宮殿や記念碑の仕事をするようになった。

30年間、パリで働いた後、プロイセン王国フリードリヒ2世の宮廷彫刻家となるため、1775年に家族とベルリンに移った。王室や、上級軍人の依頼で作品を製作し、ヨハン・ゴットフリート・シャドウらが助手となった[3]。フリードリヒ2世が死去した後もフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の宮廷彫刻家の仕事を続けた。1788年にベルリンで死去した。

8人の子供がいて、ジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサエール(Jean-Joseph-François Tassaert:1765-c.1835)は画家、版画家になった。アンリエット=フェリシテ・タサエール(Henriette-Félicité Tassaert:1766–1818)は肖像画家として知られている。孫のオクターヴ・タサエール(Nicolas François Octave Tassaert: 1800-1874)は画家になった。

作品

参考文献

  1. ^ 1727年8月19日が洗礼日 Biographical details at the Netherlands Institute for Art History
  2. ^ a b "Tassaert." Grove Art Online. Oxford Art Online. Oxford University Press. Web. 25 Apr. 2014
  3. ^ Seidel, P., „Tassaert, Jean Pierre Antoine“, in: Allgemeine Deutsche Biographie (1894), S. [Online version] (German)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエール」の関連用語

ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS