NBC交響楽団
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NBC交響楽団(英語: The NBC Symphony Orchestra)は、アメリカに1937年から1954年までの間存在したオーケストラである。その後継団体シンフォニー・オブ・ジ・エア(The Symphony of the Air)は1963年まで活動を継続した。20世紀の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの演奏をラジオ放送することを主目的に編成され、彼のタクトのもと、多くの録音を残したことで著名である。本項でもトスカニーニとの関係を中心に記述する。
- ^ Sachs 1978, pp. 262–263.
- ^ Haggin 1959, p. 142.
- ^ ハギンの前掲書p.17。ただし、人員はNBC響設立に合わせて約40名増員されている。
- ^ Haggin 1959, pp. 16–18.
- ^ Sachs 1978, p. 262.
- ^ 1941年春トスカニーニはいったん辞任するが、この少し前、トスカニーニ辞任の噂を聞いて慰留の手紙を書いたある楽員が、一緒にサインしてくれる有志を募るためリハーサル後にこれを読み上げようとすると、人事部のスパイタルニー(Spitalny)がやめさせたという。その後トスカニーニはその楽員に「どうしてわしが辞任の手紙を書かなきゃならんのだろう?」と漏らしている。NBCが辞めろと言っているのですかと聞き返す楽員に、トスカニーニは「その通り」と答えた。(Sachs前掲書p. 275)
- ^ 山田治生『トスカニーニ』(2006年、アルファベータ、pp. 217-221)
- ^ 親会社RCAはもともと同社が製造・販売する放送受信機の販売促進のためにNBCを設立した(平凡社『世界大百科事典』第2版「RCA」の項)。また現在まで続くレコードレーベルも所有していた。
- ^ サックスは「(芸術的レベルや到達度どころか)オーケストラ自体の行く末さえ、実権を握っている者たちにとってはほとんど価値のない事柄なのだということをトスカニーニは知った」とも書いている(前掲書p. 276)。
- ^ 通常はどのようなオーケストラにも、さまざまな決定を下す運営委員会や理事会が存在する。しかし「NBC交響楽団」は独立した団体でなく、RCAの子会社であるNBCの“社内事業”に過ぎなかったため、理事会などはなかった。
- ^ Sachs 1978, p. 276.
- ^ 1940年冬ファゴット奏者に欠員が生じたため、トスカニーニはウィーン・フィルで活躍した旧知のフーゴー・ブルクハウザー(Hugo Burghauser)を迎えようとしたが、チョチノフらは「トスカニーニに拒否権はあっても採用権はない」とブルクハウザーを断ったという。(Sachs前掲書p.275)
- ^ Sachs 1978, p. 234.
- ^ Sachs前掲書pp. 207-208には、楽員の雇用や解雇に対するトスカニーニの態度は必ずしも一貫していなかった、との指摘がある。第1ヴァイオリンを全員再オーディション(1931年春、当時音楽監督だったニューヨーク・フィル)したり「仕事に十分な意欲がないように見える」という理由で楽員数名を解雇したりしたが、1935年(ニューヨーク・フィル時代)に経済的理由で数名の楽員を解雇したいと事務局から申し出があった際は激怒した。また、NBC交響楽団の初代首席クラリネット奏者のことは嫌っていたが、解雇しなかった。
- ^ 諸石幸生(1989)『トスカニーニ』(音楽之友社、p.156)には以下の記述がある。「これらの(リハーサル)レコードを聴いてわかることは、トスカニーニのリハーサルが暴力主義的だ、という観念はまったく事実と異なっているということである。(中略)これらのリハーサルは、彼は厳格ではあるが、粗野な人物ではないことを示している」加えて諸石は、「太い、しわがれ声で、大声で話をしていることと、次々と指示を与えていることが強迫的な荒々しい人物という印象を与えるのかもしれない」と考察している。
- ^ Sachs 1978, pp. 274–276.
- ^ 若き小澤征爾は来日したこの交響楽団の音を聴いて衝撃を受け、有名な欧州音楽修業を最終的に決意したという。(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(音楽之友社、1962年)の記述)
- ^ “指揮者・近衛秀麿の肖像”. bookclub.kodansha.co.jp. 2018年12月15日閲覧。
- ^ “世界の近衛秀麿@近衛秀麻呂/ミラノ スカラ座o.,NBCso.,新so.,BPO”. tower.jp. 2018年12月15日閲覧。
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