シャルロット・ド・ラ・マルクとは? わかりやすく解説

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シャルロット・ド・ラ・マルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 03:49 UTC 版)

シャルロット・ド・ラ・マルク
Charlotte de La Marck
スダン女公
ブイヨン女公
在位 1588年 - 1594年

出生 (1574-11-05) 1574年11月5日
死去 (1594-05-15) 1594年5月15日(19歳没)
埋葬 スダン公国スダン、サン・ローラン教会
配偶者 アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
家名 マルク家
父親 アンリ=ロベール・ド・ラ・マルク
母親 フランソワーズ・ド・ブルボン
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シャルロット・ド・ラ・マルクフランス語:Charlotte de La Marck, 1574年11月5日 - 1594年5月15日)は、スダン女公およびブイヨン女公(在位:1588年 - 1594年)[1]。シャルロットの称号とスダン公国は、結婚によりラ・トゥール・ドーヴェルニュ家に引き継がれた。

生涯

ブイヨン公アンリ=ロベール・ド・ラ・マルクとフランソワーズ・ド・ブルボンの娘である。兄のギヨーム=ロベールが嗣子なく死去したため、シャルロットは1588年にブイヨン公位、スダン公位など、さまざまな称号の相続人になった。

シャルロットの結婚はアンリ4世によって取り決められた。夫アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュはテュレンヌ子爵フランソワ3世とアンヌ・ド・モンモランシーの娘エレオノール・ド・モンモランシーの息子であった。夫妻は1591年11月19日に結婚した。結婚すると、夫はシャルロットの共同統治者となり、シャルロットの称号を名乗った。

シャルロットは息子を出産したが、その子はその日に亡くなり、シャルロット自身もその1週間後に亡くなった。シャルロットはスダンのサン・ローラン教会に埋葬された。

夫アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュは後にブイヨン公領を自らのものと主張し、1676年に孫のゴドフロワ・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュが正式にブイヨンとスダンを手に入れた。マルク=ブイヨン家はシャルロットの死とともに断絶した。

脚注

  1. ^ Pierre Congar, Jean Lecaillon et Jacques Rousseau, Sedan et le pays sedanais, vingt siècles d’histoire, Éditions F.E.R.N., 1969, 577 p.
先代
ギヨーム=ロベール
ブイヨン女公
スダン女公
1588年 - 1594年
次代
アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ



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