キルディア山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 01:34 UTC 版)
戦闘の後
戦闘の翌日、スー族はその宿営地を捨てており、サリーは彼らが残した物全てを破壊するために700名の兵士を割り当てた。その中にはティピー、大量のバッファローの干し肉(ジャーキー)、撃ち殺された最大3,000頭の犬が含まれていた。子供を含め宿営地に取り残されていたスー族数人は、ウィネベーゴ族偵察員によって殺された。
スー族の大半はキルディア山の西にあるダコタ悪地を通って散開したが、サリー隊の近くに留まった者達もいた。丘の上にいたスー族数人が白旗を振って対話を求めたが、兵士から発砲され、逃亡した。その夜、サリー隊の哨兵がスー族の攻撃部隊に襲われ、2人が死に、1人が負傷した。他にも1人の兵士がインディアンと見間違われ、衛兵から殺された。
サリー隊は物資が不足し始めていたが、スー族の追撃を続けることに決めた。ブラックフット族の偵察員が、サリー隊の輜重列も通過できる悪地を通る道を知っていた。その2日後に、サリー隊は前方に見知らぬ地形に出くわした。スー族は8月7日から起きた悪地の戦いで意趣返ししようとしていた[14]。
戦闘に関わったアメリカ陸軍
北西方面軍: ジョン・ポープ少将 (戦場には居なかった)
師団 | 旅団 | 連隊など |
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アイオワ地区軍
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第1旅団
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第2旅団
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キルディア山戦場跡州立歴史史跡
キルディア山戦場跡州立歴史史跡は、戦場跡の一部を識別し、ノースダコタ州歴史協会が保護している。ここには戦闘で殺された兵士を顕彰する砂岩の厚板記念碑、旗竿、および2つの墓石がある。その墓石はミネソタ騎兵隊ブラケット大隊D中隊のジョージ・ノースラップ軍曹と兵卒ホレース・オースティンのものである。この場所はノースダコタ州キルディア市の北西8.5マイル (13.6 km) にある。
- ^ “Battle Summary: Killdeer Mountain, ND”. U.S. Department of Interior, National Park Service. 2012年4月2日閲覧。
- ^ Thrapp, p. 1388, lists the US losses as "2 killed, some wounded", while Carley, pp. 91-92, puts the numbers at 5 killed and 10 wounded.
- ^ Barsness, John and Dickinson, William. “The Sully Campaign 1864” Montana: The Magazine of Western History, Vol. 16, No.3 (Summer, 1966), p. 24, 25
- ^ Clodfelter, Micheal. The Dakota War: The United States Army versus the Sioux, 1862-1865. Jefferson, NC: McFarland & Co., 1998, p. 156
- ^ Clodfelter, p. 156
- ^ Clodfelter, p. 160
- ^ Barsness and Dickinson, p. 23-25
- ^ Clodfelter, pp. 161-163
- ^ Bray, Kinglsey M. “Teton Sioux: Population History, 1655-1881.” Nebraska History, Summer 1994, p. 166
- ^ United States War Department. The War of the Rebellion: a Compilation of the official Records of the United States and the Confederacy, Series 1, Vol 41 (part l), p. 135
- ^ Clodfelter, pp. 166-173
- ^ United States War Department, P. 143
- ^ Clodfelter, p. 176
- ^ Clodfelter, pp172-176
- ^ Sully's Official Report
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