754年のモサラベ年代記
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『754年の年代記』(英: Chronicle of 754)または『モサラベ年代記』、もしくは『コンティヌアティオ・ヒスパーナ』(Continuatio Hispana)は、95章からなるラテン語の歴史書[1]であり、アラブ支配下のスペインの一地方で754年に編纂された[2]。年代記はラテン語における"Europeans"(europenses)のもっとも早期の事例であり、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでサラセン人を破った戦いを記している[3][4]。
- ^ いくつかの写本は 13章と付録に分けられている。Lopez Pereira(2009年)を参照
- ^ Christysのp2によれば、それはアンダルスで書かれた最後のラテン語年代記だった
- ^ Kwame Anthony Appiah (2012), "Misunderstanding cultures: Islam and the West", Philosophy and Social Criticism 38(4–5) 425–33.
- ^ Evert Van De Poll (2013), Europe and the Gospel: Past Influences, Current Developments, Mission Challenges (Versita), p. 55.
- ^ In Smith & Wace 1880.
- ^ "イシドルス・パケンシス"は、スミスのA Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology((1870) vol. II, s.v. Isidorus, p. 627)において、バダホスの僧侶として誤って登場している。Reinhart Dozyが指摘したように、ベージャは年代記には何の役割も果たしておらず、ベージャで発行された仕事には何の関係もないかも知れない。バダホスでもないかも知れない。何故なら、年代記の時代にはそこは存在していなかったからである; パンプローナの僧侶Prudencio Sandovalは、1615年に最初に年代記を出版したが、明白に、パックス・ユリアがバダホスだと考えていて、彼の著書のタイトルを"バダホスの僧侶イシドール"としている(see Mommsen p. 333)
- ^ Tailhanは、著者はイシドルス・パケンシスではない、と最初に指摘したようだが、年代記はローランの歌のような韻を踏んだ叙事詩であると信じていたようである
- ^ p. 58-59.
- ^ 東方におけるヘラクレイオスの登位から開始し、幾つかの削除を挟んでビザンツ帝国とイスラムのシリアの征服の断片からなる
- ^ H.V. Livermore は、著書The Origins of Spain and Portugal (London: Allen & Unwin, 1971)において、巨大な神話として退け、コリンズは、彼が批判してきた神話化されたアラブの役割を避けた、とした。
- ^ C.C. de Hartmann , "The textual transmission of the Mozarabic Chronicle of 754" Early Medieval Europe 8.1, (March 1999:13-29). 写本のうち2つのものは、著作者名がないけれども、17世紀の学者によって、イシドロス・パケンシスのものだと断定された(Wace 1880).
- ^ 最初はCronica mozarabe de 754 (Zaragoza, 1980)として、続いて改訂ラテン語版と翻訳が多数の論考とともに2009年に出版された(以下参考文献を参照)
- 1 754年のモサラベ年代記とは
- 2 754年のモサラベ年代記の概要
- 3 参考文献
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