福澤泰江とは? わかりやすく解説

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福澤泰江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/22 01:32 UTC 版)

福澤 泰江(ふくざわ やすえ、1871年11月12日明治4年9月30日) - 1937年昭和12年)7月10日)は、日本の地方政治家[1]、篤農家[2]。大正から昭和初期にかけて長野県赤穂村の村長を長く務め、全国町村長会の創立に関わり、後にはその会長も務め[1]、さらには内閣調査局参与なども歴任した[2]


  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『福沢泰江』 - コトバンク
  2. ^ a b c d “内閣調査局参与 殆んど全部決定 安部磯雄氏は交渉中”. 朝日新聞・東京夕刊. (1935年6月2日) 
  3. ^ a b ふるさと歴史探訪「地方自治の先達に学ぶ」福澤泰江元村長”. 伊那谷ねっと/伊那ケーブルテレビジョン (2005年7月16日). 2017年1月23日閲覧。
  4. ^ “長野県の土木 諏訪湖排水 千曲川の滝 県会議員中の有志”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1912年6月6日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ 旧駒ヶ根市役所庁舎”. 駒ヶ根市. 2017年1月23日閲覧。
  6. ^ a b c 西野寿章 (2006). “和書戦前における村営電気事業の成立過程と部落有林野--長野県上伊那郡中沢村を事例として” (PDF). 地域政策研究 (高崎経済大学地域政策学会) 8 (3): 105. http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun8-3/nishino.pdf 2017年1月23日閲覧. "赤穂村長・福沢泰江は、自治の発達のために、大正6(1917)年に全国で唯一「公民」の名を冠した村立赤穂公民実業学校を設立し、次いで同9年には全国町村会の発起人となり、その設立に尽力した。福沢が全国町村会の発起に至ったのは、赤穂村営電気計画が国家権力によって頓挫せざるを得なかったことを背景とし、町村が自治力を備えることが重要だと認識したからであった。"  NAID 40007286330
  7. ^ 上伊那の「農協遺産」- 昭和病院 【現昭和伊南総合病院・駒ヶ根市】”. 上伊那農業協同組合. 2017年1月23日閲覧。
  8. ^ 平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)《第8回》“河野 新・少年の像””. 赤須喜久雄. 2017年1月23日閲覧。:引用元 - 河野貢著 『遥かなる東春近村』光陽出版社、1990年。 
  9. ^ “福沢泰江氏(訃報)”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 2. (1937年7月11日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧


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