河原翠城
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河原 翠城(かわはら(かわら) すいじょう[1][2][3]、文政10年9月13日(1827年11月2日[4]) - 文久2年12月18日(1863年2月6日))は、幕末赤穂藩の儒学者。諱は寛。字は士栗(しりつ)。号は翠城(すいじょう)、亦夢(えきむ)。通称は駱之輔(らくのすけ)。
- ^ 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では「かわはら」、平凡社『日本人名大辞典』では、「かわら」とある。
- ^ 河原士栗 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク)
- ^ a b 平凡社(編)『日本人名大辞典』覆刻第一版(1979年)
- ^ a b c d e 赤穂市歴史博物館『特別展図録 藩儒村上氏 -文久事件・高野の仇討ち-』赤穂市歴史博物館 2017年
- ^ a b c 片山伯山(編)、江原万理(著)『勤王の志士 鞍懸寅二郎 -原題 祖父の書翰-』鞍懸吉寅先生顕彰会 1961年
- ^ 宮崎 十三八、安岡 昭男(編)『幕末維新人名事典』新人物往来社 「森主税(可彜)」の欄
- ^ a b c 平尾道雄 著『維新暗殺秘録』白竜社 1967年
- ^ 吉村洪一 『「故郷七十年」をよんで -村上真輔氏と河原翠城について-』 芸能学会 編『芸能』第4巻第10号 1962年10月1日発行 芸能発行所 P42-46
- ^ 『忠臣蔵のふるさと 赤穂大石神社』公式Web「4月 卯月(うづき)第2日曜日 春の義士祭」 境内の桜も義士が手にもつ桜も真っ直ぐな枝になっている。
- ^ 『柴原文書』(赤穂市)より天保年間から慶応年間の「年中用事控」
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