吉村益信
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吉村 益信(よしむら ますのぶ、1932年5月22日 - 2011年3月15日)は、昭和後期に活動した美術家。大分県大分市出身。1960年に登場した過激な前衛芸術集団「ネオ・ダダ」の発案者[1]であり、主宰者。
- ^ 吉野辰海インタビュー http://www.gaden.jp/info/2002a/020425/0425.htm 「発案者が吉村益信、彼は大分の人。赤瀬川だとか他にももっといたけど・・・。九州の大分の新世紀群に出してる連中が集まってね。ネオダダ以前の話だけれど、当事モヒカン刈りの篠原(有司男)入れたら凄いぞと・・。そしたら滅茶苦茶になって、吉村チームと篠原チームに分かれたんだよ」
- ^ a b “日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ/篠原有司男オーラル・ヒストリー”. oralarthistory.org. 2022年10月25日閲覧。
- ^ “Forest PEDIA > Forest PEDIA > 吉村薬品(株)”. forestpedia.jp. 2022年10月25日閲覧。
- ^ a b c d “われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(7)まっさん オルガナイザー 「反抗」を力に” (日本語). 西日本新聞me. 2022年10月25日閲覧。
- ^ 〒870-0035 大分県大分市中央町3-6 - 11 - 2F にあったが、平成25年現在店じまいされているようである。
- ^ 磯崎新、私の履歴書(11)、「ホワイトハウス――前衛芸術家が入り浸り」日本経済新聞朝刊、2009/5/12. http://blog.livedoor.jp/akatele/archives/52891749.html
- ^ 田中三蔵、ミイラ男が銀座を歩いた、朝日新聞、2009年3月16日. http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200903160209.html?ref=chiezou
- ^ 磯崎新、『建築家捜し』、岩波現代文庫、岩波書店、2005年. 「彼らの作品はいずれ東野芳明氏によって反芸術と呼ばれるようになり、日本の前衛美術史の重要な一齣になって、美術館がかなりの数を収蔵しているが、その発表の当初は、通念と常識をくつがえす、その一点に標的はしぼられていた」
- ^ 大分市教育委員会制作、ネオ・ダダJAPAN 1958-1998、磯崎新とホワイトハウスの面々 http://www.new-york-art.com/old/neodada-manga.php
- ^ 中ザワヒデキ、「現代美術史日本篇」ウェブ版暫定頁 http://aloalo.co.jp/arthistoryjapan/3a.html
- ^ 篠原有司男、『前衛の道』、美術出版社、1968年.「当時土方巽氏が在籍していた、目黒にスタジオのある津田信敏舞踊研究所の女性が五人、ハキだめに鶴の感じでホワイトハウス(吉村益信邸)を訪れた。 吉村益信は、電撃的にその中の一人と滝口修造氏の仲人で結婚し、ネオダダは事実上蒸発した。思えばわずか九ヶ月たらずの出来事だった」
- ^ 磯崎新、私の履歴書(12)、ハプニング――裸踊りを「芸術」と主張、日本経済新聞朝刊2009/5/13 「本駒込の大和郷(むら)という地区の一軒家に住んでいた私は、自宅で吉村の壮行会を企画した。ネオ・ダダの面々のほか岡本太郎や土方巽、一柳慧らが勢ぞろいするのだから何かが起きるに違いない。そう考えて招待状に「Something happens」と記した。事実、このパーティーはハプニングに見舞われる。土方と篠原有司男が素っ裸で屋根に上って踊るのをスポットライトで照らし出し、近所の通報でパトカーが駆けつける騒ぎになったのだ。」
- ^ 兵庫県立美術館・吉村益信「豚・pig lib;」
- ^ 磯崎新ら、「新宿ホワイトハウス」を巡って、新建築、2011年4月号、新建築社 「吉村さんは昔から後輩の面倒見がよくて、親分肌なんですよ。」
- ^ 熊本市現代美術館 http://camk.glide.co.jp/artist/masunobuyoshimura/index.html
- ^ 大分市美術館 http://www.city.oita.lg.jp/www/contents/1329094386005/index.html
- ^ “池田栄廣生誕120年・吉村益信没後10年 革新と前衛の美術(大分県立美術館)” (日本語). 美術手帖. 2022年10月25日閲覧。
- ^ ギンザ・グラフィック・ギャラリー レイモン・サヴィニャック展 ─ 41歳、「牛乳石鹸モンサヴォン」のポスターで生まれた巨匠
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