ただ、秋だったと思うのだが、台湾に遠征して代表チームと親善試合を行ったことがあった。僕は本塁打を放ったが、最後に逆転満塁サヨナラ本塁打を食らって敗れた。当時僕は捕手。星野監督は負け方がよほど気に入らなかったのか、同じ捕手で2歳上の中村武志さんと僕の2人がチームを代表する形でビンタされたのを覚えている。
オープン戦だろうと親善試合だろうと、負けは負け、ダメなものはダメと徹底していた。ただ、当時の選手はみんな、口には出さなくても内心では「活躍して、このオッサンを見返したる」と考えていた。そういう反骨精神がなければ、星野監督のチームでレギュラーとして生き残ることはできなかった。監督自身、イエスマンなんて大嫌い。「ぶつかって来い」と考えていたと思う。
楽天監督1年目の2011年も同じユニホームを着て一緒に戦ったが、僕は6月に右手薬指を剥離骨折した影響で不本意な成績に終わり、星野監督から同年限りでの現役引退とコーチ就任を勧告された。
星野監督は過去にもチームを変革する手法として大幅な血の入れ替えを断行したことが何度もあったから、覚悟はしていたが、僕自身にはまだやれる自信があった。仮に楽天を退団することになっても、年俸0円でも、翌年も現役選手として仙台に戻ってきて、東北大震災に見舞われながら声援を送ってくれたファンに恩返しすると心に決めていたから、勧告を拒否し現役として中日に拾ってもらった。
結果的に星野監督に刃向かう格好になり、以後疎遠になった。僕としては、星野監督に教えていただいた反骨精神を発揮し、我を通した結果だと思っている。星野監督の教え子の中で、「引退しろ」といわれて辞めなかったのは僕だけ。勝手ながら、星野監督も内心理解してくださっていたのではないかと思う。本当にお世話になりました。