部活謹慎中にパン店で奉仕活動…挫折も経験した前田大然が2度追い、3度追いでたどりついたW杯
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「勝たないと意味がないと思うので…。こういう大きい大会になってくると、相手はクロス1本で決めてくる。これが日本の実力だと思うので、また一からやり直さないといけないと思います」と失望感を露にした。
技術に難、でも走力生かした前線からのハイプレスに活路
それでも、前田はW杯の大舞台に立ち、ゴールという結果を残すところまで上り詰めた。彼のサッカー人生を振り返れば、その事実だけでもミラクルだ。
大阪府東大阪市からプロを目指して高校サッカーの名門・山梨学院大学付属高校に進んだ高校1年生の冬、前田は大きな挫折を経験する。校内がピリピリしていた時期に、彼がいじられキャラの同級生を冗談半分にからかったことが問題視され、長期間の部活謹慎処分を受けることになったのである。
「一般生徒と同じ扱いなので、学校には来ていました。社会性を身に着けさせることが必要だと考え、パン屋さんの奉仕活動を勧め、朝5時から店に行って掃除やパン作りの手伝いを経験させました。さらに日川クラブという社会人チームを紹介して練習に行かせたところ、学校での様子や態度が目に見えて変化した。約1年後には部員みんなで話し合って、彼を再び迎え入れることになったのです」と当時の吉永一明監督(現アルビレックス新潟シンガポール監督)は経緯を説明する。
空白の1年を経て、そこから試合に出るようになり、16年に当時J2だった松本山雅入り。プロキャリアをスタートさせた。だが、「爆発的なスピードは魅力だが、技術的には難がある」という評価で、プロ1年目はコンスタントに試合に出られなかった。本人はプロの壁にぶつかった格好だが、指揮を執っていた反町康治監督(現日本サッカー協会技術委員長)が前線からのハイプレスを求めたことで、守備力が飛躍的に向上。それが今の武器につながったのだ。
「もともと走れるということはありましたけど、チームのために走るっていうのは高校とプロ1年目に築き上げたもの。特別なトレーニングはしてないですね」と本人も話したが、自身の確固たる土台を築き上げたことで、森保一監督率いる東京五輪代表候補入りを果たした。19年コパアメリカ(南米選手権)にも参戦し、直後のポルトガル1部・マリティモへの移籍にもつながった。
大西洋のマデイラ諸島に本拠を置くクラブ、マリティモ時代の前田は瞬く間にレギュラーに定着。コンスタントに試合に出た。「あんなに前線からボールを追いかけるFWは見たことがない」とポルトガルのメディア関係者も驚嘆の声を上げていたが、監督やコーチも同じ感想だったことだろう。