湾岸危機・戦争から30年 中東大変貌を読み解く

スクラップは会員限定です

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

POINT
■冷戦終結後初の本格地域紛争となった湾岸危機(イラクのクウェート侵攻)、米国主導の多国籍軍が勝利した湾岸戦争から30年。中東は大きく 変貌(へんぼう) した。

■湾岸危機・戦争で絶頂期を迎えた米国は中東での軍事プレゼンスを確立したが、逆に9・11テロを呼ぶ要因ともなり、イラク戦争に突入して権威を失墜させた。

■フセイン政権のイラクの強制排除により、シーア派イランの影響力が増大、域内はイランとサウジアラビアなどスンニ派アラブ諸国の対立局面となった。

■パレスチナ問題の優先順位が低下、米国はイスラエルの主張する「和平」を強要。共通の脅威イランを前に湾岸アラブとイスラエルの関係正常化も実現した。

調査研究本部研究員 岡本道郎 

 1990年8月、フセイン独裁政権のイラクが隣国クウェートに侵攻、翌91年初めに米国主導の多国籍軍がクウェートを解放する湾岸危機・戦争から約30年がたつ。米ソ首脳による89年末の冷戦終結宣言を受け、新たな秩序作りを模索していた世界が最初に直面した中東発の地域紛争を圧倒的勝利で解決した米国は、唯一の超大国としての正当な権威を得て、一極支配の絶頂期を築いた。しかし、2001年米同時テロ、03年イラク戦争などその後の軌跡を踏まえると、湾岸危機・戦争が今日に至る中東の混迷、米国の威信凋落(ちょうらく)、世界関与への後退の起因となったことも事実だ。

「巣ごもり」が促す物流改革

 また、この間、フセインのイラク排除でイスラム教シーア派大国イランが台頭、スンニ派アラブ諸国との勢力争いが先鋭化する中で、中東問題の核心と言われたパレスチナ問題解決への関心が薄れ、今年9月にはイスラエルと湾岸アラブ諸国が関係正常化に動くなど、中東は大きく変貌した。世界秩序に多大な影響を与えた歴史的危機の今日的意義を考える。

イスラエル、湾岸アラブが歴史的正常化

 9月15日、ワシントンのホワイトハウス南庭「サウスローン」。トランプ米大統領の仲介で、イスラエルのネタニヤフ首相、アラブ首長国連邦(UAE)のアブドラ外相、バーレーンのザヤニ外相が、イスラエルとUAE、バーレーンの国交正常化合意文書に署名した。イスラエルを承認したアラブ国家は1979年のエジプト、94年のヨルダン以来、計4か国となったが、イスラエルと直接戦火を交えていない湾岸アラブ王政国家との外交関係樹立は初めてで、まさに歴史的合意である。

 「新たな中東の夜明けだ」―11月大統領選で再選を目指すトランプ大統領は、娘婿クシュナー大統領上級顧問が水面下で仲介を進めてきたイスラエルと湾岸アラブ諸国との関係正常化交渉の結実を、政権の外交成果として強調した。もっとも、このイスラエルとUAE、バーレーンの関係正常化は、67年の第3次中東戦争以来、イスラエルの占領統治下に置かれるパレスチナ人や占領地ゴラン高原が返還されていないシリアなど、中東和平の本来のアラブ当事者を置き去りにしたもので、パレスチナ自治政府は裏切り行為と強く非難している。それでも、何より、イランという共通の脅威への連携という利害の一致、そして、先端技術大国イスラエルと湾岸アラブ産油国との貿易・投資、技術協力拡大を目指す実利志向が「和平」に優先した。イラン包囲網の急先鋒(せんぽう)を務める湾岸の盟主サウジアラビアがこの合意を容認していることは間違いなく、パレスチナ問題を肌で知る世代であるサルマン現国王から息子のムハンマド皇太子の治世に移行すれば、サウジもイスラエル承認に動くとの見方が強い。

 無論、直接の戦争状態によってではなく、パレスチナ問題という政治的制約から長く国交が結ばれてこなかったイスラエルと湾岸アラブ国家が決断した、この斬新な〝和平〟が、前向きな成果を生むか、新たな不安定リスクを増幅させるのかの真価が問われるのはこれからだ。しかし、今回の合意のインパクトは、トランプ政権が、米歴代政権が成功を目指し苦闘してきた本来の「中東和平プロセス」を追求せずにアラブ世界でのイスラエルの認知・統合を最優先、アラブ側もイランの脅威からイスラエルを重視し、パレスチナ問題解決を棚上げする政治決断をしたことにある。それ自体が、湾岸危機・戦争から30年を経た中東の劇的な変化であり、同時に、この歴史的合意が実現に至った背景も、湾岸危機・戦争の発生、それに伴って生じることになった、その後の中東戦略状況を抜きに語れない。その経緯を別掲年表に掲げたが、30年前の激震から振り返ってみよう。

フセインのイラク軍、クウェート侵攻

 1990年8月2日未明、7個師団からなるイラク軍がクウェートに侵攻、一気に同国全土を占領し、8日にはイラクに併合した。米国もアラブ諸国も予想できなかったイラクの独裁者サダム・フセイン大統領の唐突な産油国クウェートへの侵略が、冷戦終結直後の世界を震撼(しんかん)させたことは言うまでもない。

 79年にイスラム革命を成就させたイランと80年から8年にわたりイラン・イラク戦争を戦い、88年に停戦したばかりのフセイン政権がなぜ、クウェート侵攻という暴挙に出たのかについては、<1>クウェートとの油田資源争いの武力解決<2>8年間の戦争と油価低迷による財政破綻、経済苦境の強引な打開<3>米国とアラブ諸国の支援を受けて戦ったイ・イ戦争を通じアラブ最強の軍事大国となった自国への過信<4>小国クウェートを併合しても、米国もアラブも介入しないだろうとのフセイン自身の読み誤り、など、諸説挙げられている。クウェート首長らが逃げ込んだ隣国サウジアラビアのファハド国王(当時)は侵攻当日、ブッシュ(父)大統領との電話会談で、フセイン大統領が国王に対し、事前にクウェート攻撃の意図はないと約束していたにもかかわらず正反対の結果となったと明かした上で、「サダムはうぬぼれている。この行動が世界秩序を覆すということをわかっていない」と訴え、フセイン大統領をヒトラーになぞらえながら、「彼には力しか通じない」と断固とした行動を米国に要請している(注1)。

 ブッシュ政権は迅速に行動した。クウェートからのイラク軍即時撤退を求める国連安保理決議を基に、クウェート解放、サウジ防衛のためファハド国王から同国への米軍駐留の承諾を得るとともに、アラブ諸国を含む39か国約70万人からなる多国籍軍を組織。結局、フセイン政権はクウェート撤退に応じなかったため、翌91年1月17日未明、「砂漠の嵐」作戦が空爆で開始された。当時、アブダビで取材中だった筆者は、亡命クウェート放送のアナウンサーが「解放戦争が始まりました。神は我々と共に!」と絶叫していたのを覚えている。米最新兵器はイラク軍のソ連製兵器を圧倒、2月24日からわずか約100時間の地上戦を経て、同27日、クウェートは解放、翌28日停戦が成立した。米軍事力の完勝だった。

圧勝した米、中東軍事プレゼンス確立

 現代史における湾岸危機・戦争の意義は大きい。まず、冷戦勝利者としての米国が、冷戦後の世界秩序維持で絶対的な役割をほぼ完璧に果たしたことだ。ブッシュ政権は国連安保理決議で対イラク武力行使承認を得るなど、手順を尽くし、広範な多国籍軍を構築して独裁者フセインの挑戦を退けた。米国はまた、ソ連と戦うために開発してきたトマホーク巡航ミサイルやステルス爆撃機など最新兵器を実戦で使用、その状況がCNNテレビなどで放映されたことによって、名実ともに最強の軍事力を保持することを全世界に見せつけた。米国が「世界の警察官」としての役割を初めて、しかも最高のパフォーマンスで果たしたのが湾岸危機・戦争だったとも言える。

 だが、中東安全保障の観点での最大の意義は、サウジの米軍駐留受け入れ、バーレーン、カタールなど湾岸での軍事基地強化・拡大により、米国が初めて、中東での軍事プレゼンスを確立したことだろう。欧州や日韓など東アジアでは恒常化してきた米軍の前方展開戦略が湾岸にも適用された意味は大きい。

 米ソ冷戦下の70年代に中東から撤退した英国に代わり、湾岸の安全保障に関与することになった米国だが、当時のニクソン政権はベトナム戦争に手足をとらわれていたこともあり、パーレビ王政のイランとサウジという親米同盟国の「二つの柱」に依拠する間接関与戦略を採った。79年のソ連のアフガニスタン侵攻を受けて、カーター政権が「湾岸防衛」を米国の国益と位置づけて中東に緊急展開部隊を創設、レーガン政権がイ・イ戦争末期に湾岸諸国のタンカー防衛に直接関与しても、中東に恒久的な軍事プレゼンスを持つことはなかった。

 米軍はディエゴガルシア島などアラビア半島の「水平線の彼方(Over the horizon)」に展開し、一朝有事の際に駆けつける―それが、米国にも湾岸諸国にも都合がよかったのである。特に、メッカ・メディナのイスラム教2大聖地の守護者を任じるサウジにとって、異教徒米軍の受け入れは困難で、米国も反米感情を刺激しかねない現地駐留を避けていた。この米湾岸安全保障の構図を、湾岸危機・戦争が塗り換えたのである。

「裏庭」への米軍駐留、「9・11」招く

 米軍が「水平線の彼方」から「裏庭」に居座ったことで、米国の中東戦略も大きく変容する。クリントン政権(93~2001年)は、米国にとって初めて所与のものとなった中東軍事プレゼンスを背景に、ならず者国家として生き残ったフセイン政権のイラクと反米の革命イランを同時に封じ込める「二重封じ込め」政策を採り、一方で中東和平実現を目指すことになる。しかし、同時に、湾岸危機・戦争を契機にサウジが招き入れた中東での米軍事プレゼンスこそが、アフガニスタンでのソ連との聖戦を終えたサウジ出身のウサマ・ビンラーディンら過激なジハード主義者に、新たな敵を与えた事実は見逃せない。すなわち、「イスラム世界を浸食する新たな十字軍」としての異教徒米国である。

 ビンラーディンは96年、過激組織「アル・カーイダ」指導者として対米ジハードを宣言し、中東、アフリカ各地で米施設へのテロ攻撃を実施。ついに2001年9月11日、アル・カーイダ構成員が乗っ取った米旅客機をニューヨークの世界貿易センタービル、ワシントンの国防総省に突入させるという未曽有の同時テロを行い、約3000人が犠牲となった。9・11テロは、イスラム教聖地のあるサウジに軍を駐留させ、同じく聖地エルサレムを占領するイスラエルの後見役である超大国米国への過激イスラム主義の挑戦であり、米国と世界のあり方を一変させた。

 ブッシュ(子)政権は「テロとの戦い」を宣言、テロ組織とそれをかくまう「ならず者国家」への先制攻撃論を掲げ、ビンラーディン引き渡しに応じなかったアフガニスタンのタリバン政権を同年11月までに軍事行動で打倒。返す刀で、大量破壊兵器開発・保有疑惑を口実に03年、国連安保理決議なしにイラクを武力攻撃、フセイン政権を一気に崩壊させた。米国は湾岸戦争で構築した軍事プレゼンスを活用、同戦争の際に息の根を止めることをしなかったフセイン政権を中東独裁体制の代名詞として強引に排除したわけだ。イラク民主化実現による中東民主化ドミノ論をも目標に掲げた。

 しかし、米国は占領政策に失敗、自由選挙は実施したものの、フセイン政権下では抑圧されてきた人口多数派のシーア派政権が誕生したことで、スンニ派勢力との流血の宗派抗争、ジハード主義組織によるテロが激化し、イラクは大混乱に陥った。米軍の死者も4000人を超え、イラク人捕虜虐待の露見もあいまって、ブッシュ流のやみくもな単独行動主義は、米国の権威を一気に失墜させた。こうしてみると、湾岸危機・戦争勝利によって米国が得た中東での圧倒的軍事プレゼンスが、9・11同時テロを経て、かえってイラク戦争という米世界戦略史上に残る大失策を犯す慢心を招く起因となったと言うこともできよう。

「置き石」フセイン排除でイラン台頭

 また、米国によるフセイン政権の強制排除は、シーア派大国イランの中東での影響力拡大という、本来、米、イスラエル、スンニ派アラブ諸国が最も恐れていた事態を逆に招いてしまう結果となった。フセイン政権のイラクは良くも悪くも、「イランとサウジという二つの地域大国の間の置き石」(酒井啓子・千葉大教授)として、イラン・シーア派革命の波及からスンニ派アラブ世界を守る防波堤の役割を果たしていた。そのフセインのイラクを、米国が9・11同時テロ以降のある種のパニック状態の中で、イラン、北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」として悪魔化し、あと先を考えずにつぶしてしまったツケは大きい。

 イラク戦争によって、革命イランは、伝統的な脅威対象であったイラクに、イ・イ戦争時代から支援してきたシーア派の反フセイン体制組織主体で構成される親イラン政権が誕生するという望外の成果を手にする。これにより、イランからイラク、盟友関係にあるアサド政権のシリア、傘下のシーア派組織ヒズボラが国政を牛耳るレバノンに至る「シーア派三日月地帯」が出現。イランはさらに、2011年からの民主化運動「アラブの春」で生じたシリア内戦、14年にイラク、シリアにまたがるカリフ制国家の樹立を宣言した過激組織「イスラム国」との戦闘などに介入し、一気に影響力を増した。

 湾岸危機・戦争からイラク戦争を経て生じたイランの台頭は、ブッシュ政権の後を受けて中東からの脱却を掲げたオバマ、トランプの二つの政権の中東戦略をさらに混乱させることになる。オバマ大統領はイラク駐留米軍を11年段階で撤退させ、結果的に、「イスラム国」出現を招く失態を演じた。13年にはシリア内戦への介入を忌避、「米国は世界の警察官ではない」と公言した。その上で、オバマ政権はもはやイランの域内での影響力は無視できないとして、15年、英仏中露独とともにイランと核合意を成立させ、地域大国イランに対する圧力政策から関与政策へと転換。イランとサウジなどスンニ派アラブ諸国との「新しい均衡」を醸成させることで中東安定を図ろうとしたが、イスラエルと湾岸アラブがこれに強く反発、うまく機能しなかった。

真逆に揺れた米国の対イラン戦略、混迷に拍車

 17年発足のトランプ政権は逆に、支持基盤のキリスト教福音派有権者を重視する立場から極端な親イスラエル路線を取り、イラン敵視政策に再転換。核合意から一方的に離脱し、対イラン経済制裁を復活させたことで、米イラン関係は一気に緊張、ホルムズ海峡を挟んでイランと湾岸アラブとの関係も緊迫化した。だが一方で、トランプ大統領は対イラン圧力を最大限に強めながらも19年9月、サウジの石油施設がイラン関与が濃厚なドローン攻撃を受けた際、「サウジへの攻撃であり、我々(米国)に対する攻撃ではない」と距離を取る姿勢を強調。さらに、「我々は今や(シェール革命で)エネルギーの純輸出国、世界最大の生産国であり、中東の石油、ガスは必要ない」とも述べるなど、軍事行動を含む中東関与そのものへの関心は極めて希薄だ。湾岸危機の際、ブッシュ(父)大統領がファハド国王に対し、「サウジの安全保障は、米国と西側世界にとって不可欠かつ根源的利益だ。フセインをただではすまさせない」(90年8月4日の電話会談)と力強く軍事行動を約束したのと比べると、隔世の感がある。

 こうした米国の中東関与への明確な意思「不在」の中で、代わりに、プーチン政権のロシアや地域大国トルコがシリアやリビアに介入し、存在感を示している。無論、中国も、アジアと欧州を結ぶ海と陸での経済圏「一帯一路」構想の重要なルートである中東を極めて重視しており、イラン、イラクなどと関係強化を図る一方、イスラエルや湾岸アラブとも同時に経済協力を巧妙に進めている。

 このように、湾岸危機・戦争の際には絶頂にあった中東での米国の権威と威令は、<1>中東軍事プレゼンス確立<2>イラン・イラク二重封じ込め<3>9・11同時テロ<4>フセイン政権強制排除(イラク戦争)<5>革命イランの台頭<6>中東撤退方針とイラン戦略の迷走、という30年の経緯の中で、著しく失墜したと言える。特に、湾岸危機・戦争からイラク戦争に至るフセインのイラクという地政学上重要な「置き石」への米国の対応が、結果的に現在の分断の中東を形作る大きな要因となったと言っても過言ではない。

パレスチナ問題後退、米和平案も「示談」に

 一方、この軌跡の中で、もう一つ見逃せない重大な変化がある。それはまさに、冒頭で触れたイスラエルとUAE、バーレーンの国交実現につながった最大の要因でもあるのだが、中東問題の核心と言われたパレスチナ問題の域内政治アジェンダの中での著しい後退、周縁化である。それは同時に、中東政治におけるアラブ諸国の存在感の低下、イランの台頭、トルコの介入拡大に見られる非アラブ地域大国の影響力増大と連動した動きでもある。

 この30年のパレスチナ問題を巡る潮流の変化を何より物語るのが、トランプ政権が今年1月に発表したパレスチナ紛争の解決を目指した中東和平案だ。

 「繁栄への平和」と題された英文181ページに及ぶ大部の和平案(注2)で、トランプ政権は、「領土と和平の交換」を定めた67年の国連安保理決議242などに基づく過去の和平プロセスが平和をもたらさなかったことを指摘した上で、現状に即して実現可能でパレスチナ側も経済的恩恵が得られる「現実的な2国家解決策」を提示したと自賛。イスラエルとパレスチナの「2国家共存」原則を唱えながらも、<1>既存のユダヤ人入植地、ヨルダン渓谷などヨルダン川西岸の約3割をイスラエル領とする<2>代わりに、パレスチナ側にガザ地区付近のイスラエル領を農工業地帯として与える<3>エルサレムは不可分のイスラエルの首都である<4>非武装化、テロ防止などの条件を満たせば、現東エルサレム郊外を首都とするパレスチナ国家建設を認める(首都はアラビア語でエルサレムを意味する「アル・クドゥス」と命名できる)<5>パレスチナ経済支援のため10年間で500億ドル(約5兆円)を投資―などを骨子とする。

 パレスチナ側が求めてきた、1948年のイスラエル建国、第1次中東戦争で発生したパレスチナ難民が元の居住地に戻る帰還権については、その存在すら認めていない。イスラエル側の主張を全面的に認める内容で、要は、今やユダヤ人約40万人が住む西岸入植地の撤去は問題外であるのだから、エルサレムを首都として統治するイスラエルの現状をパレスチナ側が認め、イスラエルの脅威とならない非武装民主国家の樹立を誓えば、パレスチナ人の生活向上のため経済支援を行う、西岸の代替地も与える―というものだ。67年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した西岸、東エルサレムの返還を前提に独立国家樹立を目指すパレスチナ人にとって、占領の現状追認と経済支援をセットにした「示談」を米国に一方的に求められた形だ。

 パレスチナ国家樹立の要件も極めて厳しい。パレスチナ側は独立国家樹立の前提として、「言論の自由、自由公正な選挙、人権尊重を提供する法の支配を樹立する憲法に基づく統治制度」を実施しなければならない、としている。パレスチナが求められるのは、イスラエルと国交を結んだUAE、バーレーンを含め、どの親米アラブ国家も実現できていない項目が羅列された完全無欠の民主主義国家、であり、しかも、それを達成できたかどうかは米国とイスラエルが判断する。両国が達成したと認めれば初めて、国家樹立を認めるという事実上、実現不可能な要件だ。さらに、仮に「パレスチナ国家」が認められても、完全非武装化され、イスラエルがパレスチナ国家の安全保障に責任を持つ。国境管理は、海空ともにイスラエル軍が管理する。つまり、和平案は「パレスチナ国家」への〝道筋〟を示しながら、実際はパレスチナ国家の「ガザ化」、事実上の「占領固定化」を強要する内容だ。

「和平」置き去りに湾岸アラブで「実利」

 一方、和平案が最重視しているのが、イスラエルとアラブ諸国の関係構築だ。「イスラエルは地域の脅威ではない。経済状況とイランの悪意ある行動こそが域内諸国の存立を脅かす脅威だ」と強調、この和平構想の目標が「アラブ諸国にイスラエルと完全協力させること」と直言している。パレスチナ独立国家樹立、アラブ占領地の返還が実現されれば、アラブ諸国はイスラエルと関係正常化する、という2002年にサウジ主導でアラブ連盟首脳会議が採択した「アラブ和平イニシアチブ」の原則「内(パレスチナ和平)から外(アラブ・イスラエル正常化)へ」(インサイドアウト)に拘泥することなく、まず、「外」のアラブ・イスラエル関係をイランという共通の脅威と経済的利益を最重視する立場から先に正常化し、その後、「内」のパレスチナ和平を目指すという「外から内へ」(アウトサイドイン)のアプローチへの大胆な転換である。UAE、バーレーンは「アラブ和平イニシアチブ」を捨て、この「外から内へ」アプローチを受け入れたのである。

 1995年11月、和平路線を推進したイスラエルのラビン首相が、対パレスチナ和平を神への裏切りと憤ったユダヤ過激派に暗殺された後、和平強硬路線を取るネタニヤフ首相が登場し、イスラム主義組織ハマスの自爆テロ続発で和平プロセスが著しく後退したことがある。だが、米歴代政権も国際社会もそうした危機の際には、このままでは和平プロセスが崩壊してしまうとの危機感から、交渉再活性化への努力を行ってきた。しかし、トランプ大統領は、その独特の政治、ビジネス感覚から、イスラエルの主張と既存の現実をそのまま「和平案」に盛り込み、和平交渉を事実上、放棄することを選択した。

 つまり、現状では、二国家解決論も含め、諸課題解決の見通しを立てることも困難で、労力をつぎ込めばつぎ込むほど時間の浪費になる和平プロセスという「不良債権」には手を付けないことにしたのだ。その上で、イランという共通の脅威のために現実には水面下で進行していたにもかかわらず、まさに停滞する中東和平プロセスが妨げとなってきたイスラエルと湾岸アラブ国家との関係正常化という、達成可能性がより高い「ビジネスチャンス」を生かすことで、再選に向けた政権の外交レガシーという確実な「リターン」を得たという計算だろう。

 それにしても、ここまでイスラエル一辺倒の構想を「パレスチナ和平案」として提示する米政権が出現したという事実。そして、これを受けた国際社会も、交渉再開への糸口を探ろうと動こうとしない現実。イスラエルとの関係正常化に公然と走るアラブ国家が続出する現実。コロナ禍という異常事態のさなかであることを差し引いても、30年の変化の大きさを如実に物語る。

中東でも「自国第一主義」が徹底

 それでは、UAE、バーレーンはなぜイスラエルとの関係正常化に動いたのか。イランの脅威への連携、ポスト石油時代やコロナ禍対策も見据えた貿易・投資拡大、経済・技術協力強化などが大きな理由であることは間違いない。また、湾岸諸国にとっては、オバマ、トランプの二つの政権が中東からの撤退方針を掲げた中、米国が中東で絶対に守り続ける唯一の国、イスラエルとの関係強化が、イランの脅威と対峙(たいじ)する自国の安全保障強化につながるとの戦略的判断もあろう。しかし、やはり見逃せないのは、中東でも自国第一主義が政治潮流の主流になったということではないだろうか。

 英語のNationalismを表すものとして、アラビア語は「カウミイヤ(民族主義)」「ワタニイヤ(自国家・自国民主義)」の二つの言葉がある。前者はアラブ民族の連帯を軸とする民族主義、後者はエジプトやシリアなどそれぞれの国家・国民次元での結束、利益を軸とする国家・国民主義を意味する。1973年の第4次中東戦争(注3)を経て、当時のアラブの盟主エジプトが79年に敵国イスラエルと、アラブ初の単独和平条約を結んだ際、エジプトはアラブの統一歩調順守の立場(カウミイヤ)ではなく、エジプトとしての国益を最優先する立場(ワタニイヤ)で行動した。このとき、エジプトは全アラブ諸国からの非難にさらされ、アラブ連盟から除名される孤立を味わう。アラブ世界はエジプトの自国第一主義を許さなかったのだ。

 それから約40年。湾岸危機・戦争でのアラブ分裂、イランの台頭、「アラブの春」の混乱等を経た今、パレスチナ解放、独立国家樹立というアラブの大義を捨て、自国益を最優先する立場からUAE、バーレーンが選択した対イスラエル国交正常化は、中東における「自国第一主義時代」の徹底を白日のもとにさらした形だ。

米二重基準批判の「リンケージ」、今や昔

 話は前後するが、30年前の湾岸危機の際、フセイン大統領は、国連安保理決議でクウェートからの即時完全撤退を要求された90年8月中旬、「イラクのクウェートからの撤退はイスラエルの占領地撤退などと同時解決を図るべきだ」と強弁、67年の第三次中東戦争で獲得した占領地撤退を求める安保理決議を無視し続けるイスラエルを支持する米国の「二重基準」を逆に批判した。盗っ人猛々(たけだけ)しいとも言うべき、無茶苦茶な詭弁(きべん)、暴論だったが、当時の中東問題の核心を狡猾(こうかつ)に突いた格好のフセイン流の主張は、パレスチナ人やアラブ大衆の心をとらえた。クウェートとパレスチナの「リンケージ(連関)」論である。

 占領下パレスチナ人は熱狂し、パレスチナ解放機構(PLO)、ヨルダンはイラクを支持したほどで、反米、イラク支持デモも中東各地で発生した。さらに、フセイン大統領は湾岸戦争開戦直後、アラブ国家として初めて、イスラエル本土にスカッドミサイルを撃ち込む。アラブ大衆は歓喜の叫びを上げた。イスラエルを口では激しく非難するが、占領地返還に向けて何ら実効性ある戦略を打ち出せない既存のアラブ国家体制への不満と鬱屈(うっくつ)の裏返しだった。

 こうした状況下、ブッシュ米政権は、イラクに立ち向かう多国籍軍の重要な一翼を担うアラブ陣営の分裂を生じかねないとして、イスラエルに報復自制を懇願、同国の湾岸戦争参戦を封じた。だが、米国はこれにとどまらず、リンケージ論で白熱したアラブの反米感情の懐柔という意味も含め、戦争勝利後の91年10月、スペイン・マドリードで、国連安保理決議242、338で規定する「領土と和平の交換」原則に基づくアラブ・イスラエル紛争の公正かつ包括的解決を目指す初の米ソ共催による中東和平国際会議を開く。パレスチナ人を含むアラブとイスラエル代表が初めて一堂に会した同会議は、93年の「オスロ合意」(パレスチナ暫定自治合意)につながるその後の中東和平プロセスの基礎を築いた。

 重要なのは、この時点ではなお、当事者のみならず、冷戦後の世界秩序の守護者たる米国を含めた国際社会が、パレスチナ問題解決の必要性を強く共有し、敵対するアラブ・イスラエルの当事者を説得して国際会議に参加させるという実際の政治行動を起こしていたことだ。こうした、少なくとも30年前には確実にあったパレスチナ問題解決を目指す強い政治意思は現在、米国にも、アラブ諸国にも、国際社会にも見受けられない。

「アラブの春」で自国問題が最優先に

 アラブ諸国のパレスチナ問題に対する立場を大きく変えたのが、2010年末から始まった独裁政権打倒を目指す民主化運動「アラブの春」だ。翌11年に、チュニジア、エジプト、リビア、イエメンで政権が崩壊、シリアでは今に続く内戦で国民の半分が家を追われた。湾岸王政諸国でも抗議デモが発生、かろうじて財政ばらまき政策や治安出動で抑え込みに成功したが、アラブ独裁国家体制は激しく弱体化し、各国は自国の混乱収拾、治安安定が最優先課題となった。必然として、パレスチナ問題の解決、つまり、パレスチナ独立国家樹立とイスラエルの占領地撤退実現を、1948年の第一次中東戦争以来のアラブ民族共通の悲願、連帯のシンボルとして「聖域」視する考え方は事実上、崩れ去った。このアラブ弱体化、パレスチナ問題の後景化の過程で着々と進行し、域内課題の優先事項となったのがイランの台頭とみることができる。

 実際、イラク戦争、「アラブの春」、内戦、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」の出現など、今世紀になって発生した中東での主な出来事を見ても、パレスチナ問題が未解決であることが直接の原因となったものは基本的にない。つまり、「中東紛争解決の核心がパレスチナ問題」という20世紀までは国際社会で信奉されてきた大前提が成立しないことが実証されてしまった。それはまた、同時に、仮にパレスチナ独立国家が何らかの形で実現したとしても、それ自体が中東の混迷と不安定を解消する特効薬にはならないことを冷徹に示す。

 パレスチナの孤立は深刻だ。だが、パレスチナ側もこの事態を招いた責任は免れまい。

 パレスチナ問題をめぐる政治環境の悪化、国際的関心の低下が誰の目にも明らかとなる中で、パレスチナ側はただやみくもに、パレスチナ独立国家樹立による公正な解決という「正論」を振りかざし、トランプ政権に対する拒絶を前面に出すだけで、情勢の変化に応じた対応策を模索する努力をしてこなかった。また、国際社会の関心を、中東和平の本旨である「公正かつ包括的解決」に向けて再度喚起するためにも、パレスチナ人自身、特に政治指導勢力の一致団結が何よりもまず求められたにもかかわらず、アッバス議長率いる自治政府、ハマス双方とも、パレスチナ民族としての意思統一へ向けた真摯(しんし)な対話・折衝に、ついに本腰を入れることはなかった。

 結果、既存のアラブ国家群に生じた新たな潮流を理解できないまま、トランプ政権とイスラエル、湾岸アラブ諸国が仕組んだ中東和平プロセスの事実上の“化石化”の中で、「機能不全の当事者」として置き去りにされた格好だ。

湾岸時の米国の「残像」にとらわれる世界

 ここまで、湾岸危機・戦争以降の中東の変貌を、イラク、イランを鍵とする米国の中東戦略とパレスチナ問題を通じて振り返ってきたが、世界の重要戦略地域である中東の混迷と不安定状況は深刻だ。米、イスラエル、湾岸アラブ諸国とイランの対立構造の行方は見通せない。トランプ再選の成否がかかった11月の米大統領選の結果が中東情勢に影響することは確かだが、仮にバイデン民主党政権が誕生することになっても、米国の中東関与縮小の流れが変わると予想することは難しいだろう。一方で、米国との「新冷戦」を世界レベルで闘う中国が、中東での影響力を増しているのも見逃せない。

 アラブ・イスラエル関係の新たなベクトルも見えてきた今日の中東で、次代の秩序はどう作られるのか、予断を許さない。しかし、米国の中東関与への意思の「不在」がますます顕在化した今、中東の安定化に向け、米国が自らそのパワーを真剣に傾注する事態はもはや、想像しがたい。それでも、世界はなお、米国の適正な中東戦略に期待している。それはあたかも、米国が卓越した指導力、対応力、行動力と圧倒的パワーを顕示した湾岸危機・戦争時の「残像」にとらわれているようにも見える。湾岸危機・戦争から30年、中東は羅針盤なき、新たな模索の時代を迎えている。

(注1)Bush Telcon with King Fahd of Saudi Arabia, August 2, 1990 https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2020-09-09/inside-gorbachev-bush-partnership-first-gulf-war-1990

(注2)PEACE TO PROSPERITY, A Vision to Improve the Lives of the Palestinian and Israeli People, January 2020

(注3)1973年10月の戦争勃発を受け、サウジアラビアやUAE、バーレーンなどが加盟したアラブ石油輸出国機構(OAPEC)はエジプト、シリアを支援し、イスラエルを支持する欧米などに原油輸出を禁止する石油戦略を発動した経緯がある。

参考文献

岡本道郎(2003年)『ブッシュvsフセイン イラク攻撃への道』(中公新書ラクレ)

※この論考は調査研究本部が発行する「読売クオータリー」掲載されたものです。読売クオータリーにはほかにも関連記事や注目の論考を多数収載しています。最新号の内容やこれまでに掲載された記事・論考の一覧は こちら にまとめています。
スクラップは会員限定です

使い方
「調査研究」の最新記事一覧
記事に関する報告
1813021 0 国際・安全保障 2020/10/31 12:00:00 2021/02/02 13:28:28 2021/02/02 13:28:28 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210201-OYT8I50096-T.jpg?type=thumbnail
読売新聞購読申し込みキャンペーン

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)