大阪・ミナミの旧大阪球場跡地にあるショッピングモール「なんばパークス」の9階に往年の南海球団の足跡をしるす「南海ホークスメモリアルギャラリー」がある。エレベーターホール横の小さいスペースで、ショーケースには鶴岡一人監督のジャンパー、杉浦忠監督のユニホーム、1959年の日本シリーズ優勝フラッグ、64年の日本シリーズ優勝ペナント、門田博光の2000安打記念バットなどを展示。名選手の紹介や歴史をたどる年表のパネルも飾られている。南海球団は88年にダイエーに譲渡され、ホームグラウンドだった大阪球場は98年に解体。2003年になんばパークスが開業し、同ギャラリーがオープンした。

 しかし、すべての展示物に一切「野村克也」の名前はない。外の庭にある手形プレートも球団関係は広瀬叔功、岡本伊三美、門田だけ。24年間も在籍し、南海黄金期の現役時代は3冠王、本塁打王9回、監督としても73年にリーグ制覇した長年の功労者にもかかわらず、だ。

 これは野村さんが77年に球団を追われた理由が沙知代夫人の“現場介入”にあったとされ、ギャラリーオープンの際に夫人が協力を拒否したのが原因といわれる。管理する南海電鉄に聞くと「写真を(展示)掲載する際に皆さんの許可をもらうのですが、野村さんにはいただけませんでした。お断りされているので、今後も許可を得るつもりはありません。遺憾ながらご本人の解釈と思ってこれ以上はありません。野村さんも亡くなられ、その意思を尊重していきたいと思っています」と説明した。

 2月に亡くなった際も献花台は設けられず、ファンの問い合わせも数件だったという。野村さんの名前のない「違和感」と、同時にうかがえる夫妻と南海の「遺恨」…。なんとも複雑な気分にさせられる場所だった。