日本時間9日に訃報が広がったサッカー元西ドイツ(当時)代表のスター選手で監督も務めたフランツ・ベッケンバウアーさんは、1975年にバイエルン・ミュンヘンの一員として来日。サッカーファンの枠を超える熱狂を呼んだ。

 死去は遺族がドイツのdpa通信に伝え、バイエルンやドイツ・サッカー連盟も公表した。78歳だった。死因は明らかにされていないが、欧米メディアの報道によると近年は健康上の問題を抱えていたという。

 バイエルンの発表によると「日曜(7日)、ザルツブルク(オーストリア)で家族に囲まれて亡くなった」ベッケンバウアーさん。選手として74年、監督として90年に達成したダブルW杯制覇は、ペレやヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナも成し得なかった快挙だった。日本との関わりでは75年の来日が一大イベントとして歴史に刻まれている。

「カイザー(皇帝)」と呼ばれたベッケンバウアーさんと「爆撃機」FWゲルト・ミュラー(21年死去)らを擁した当時のバイエルンは、ブンデスリーガ3連覇や欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)を3連覇するなど黄金時代を築いた。来日はそのさなか、年明け早々に日本代表と2試合を行った。

1975年…日本代表と戦うベッケンバウアーさん
1975年…日本代表と戦うベッケンバウアーさん

 いずれも東京・国立競技場で1月5日、7日に対戦し、2試合とも1―0でバイエルンが勝っている。バイエルンは主力を5人欠いていた。

 傑出したストライカー・釜本邦茂(元ガンバ大阪監督)ら日本の攻撃陣はゴールを奪えなかったが、守備陣の健闘ぶりは目を引いた。メキシコ五輪銅メダルのGK横山謙三以下、清雲栄純、大仁邦彌、落合弘…。日の丸DFはピッチに君臨する皇帝に食らいついた。当時の取材にベッケンバウアーさんは「目についたのはナンバー5(清雲)。彼がマークしたためにミュラーのシュートが不発に終わってしまった」と語っている。

 GKの横山氏は日本代表や浦和レッズで監督を務め、大仁氏は日本サッカー協会の第13代会長、清雲氏はハンス・オフト監督時代の日本代表コーチ、ジェフ市原監督などを歴任。そうそうたるメンバーが日本の守りについていたことになる。

 2試合で約10万人を動員。「アディダス」の名も広め、ポジションのリベロは格好良さの代名詞に。ベッケンバウアーさんとバイエルンはサッカーの枠を超えて日本に衝撃をもたらした。同クラブは「バイエルンの世界はもう、これまでと同じではない。突如、より暗くなり、より静かになり、より乏しいものになった」としてその死を悼んだ。