<奥島孝康のさらに向こうへ>ぼくの学生時代(3) 安保闘争に人間をみた

2019年9月7日 02時00分
 ぼくの学生時代といえども、それは青春の真っ只中(ただなか)のことであり、ぼく自身の熱い血が騒いでいたことも同世代の仲間と何の変わりはない。六〇年安保闘争の前年入学ということでもあり大学は騒然としていた。
 歌声世代に属するぼくは、当時西武新宿線の駅前にあった歌声喫茶の「ともしび」とか「カチューシャ」とかへ土日の夜にはよく通っていて、次第に安保闘争の渦に巻きこまれていった。
 そのあげく、二年生の四月には法学部自治会のクラス委員に選出された。
 嫌だったが、田舎者のぼくはクラス委員としての責任感から、左腕に赤い腕章をつけ、デモ隊の最左翼に立ち、仲間を守るために最善を尽くすべく行動した。
 一九六〇年六月十五日の国会正門付近の混乱では東大生の樺(かんば)美智子さんが死んだが、ぼくらのデモ隊の四、五十メートルくらい離れたところだった。同月十九日深夜、安保条約の自動承認の日には、やはり国会正門前付近で、夜空にウワーという喚声がこだまし、一切が終わった。
 この闘争で、ゼミ仲間の一部の卑怯(ひきょう)な振る舞いや、自治会の不正な運営をさんざん見てきた結果、さまざまなことを学んだ。
 これまでもこれからも政党や党派に属することはないが、いまでも「社会主義の大義」を疑ったことはなく、それを隠したこともない。
 しかし、あれほど左翼政党を崇拝し、あれほど支援党派を明確にしていた人たちが、いまではそんなことをすっかり忘れたり、明確に党派から離脱した人たちを多数見てきたりすると、人間不信に陥りかねなかった。
 安保終了後、それまでの左翼関係の読書にかなり傾いていたぼくは、丸山真男や大塚久雄の著作の再読から始めて、社会科学系の著作をかなり幅広く読みまくり、法律書へ急激に傾倒していった。
 それと同時に、田舎者のぼくの身体に染みついている登山病が再発した。中学・高校時代には、月に二、三回は出かけた土日のキャンプの思い出に火が点(つ)いたのである。
 土曜日の上野発の夜行列車で尾瀬沼とか新潟の山へ出かけるのであるが、尾瀬へは学部時代だけでもおそらく二十回近くは行ったのではないか。
 こうした小登山が当時の荒れていたぼくの心をどれだけ癒してくれたかしれない。
 その後、登山は教員になって随分一緒に登った島田征夫君(法学部教授)たちと出かけた奥秩父・奥武蔵の登山、六十歳台に始めた南北アルプス登山などに続いている。
 しかし、他方、定期試験では、十二月に入ると一カ月間、一度もフトンを敷かず、机の上で一、二時間の仮眠をとるだけで、死にもの狂いで勉強した。
 ぼくの勉強方法は、原則として、第一に、「山をかけない」、第二に、教科書は担当教員の教科書は使用しない、というものであった。
 せっかくの機会であるから、成績にはこだわらず、本来の勉強をしたかったのである。
 幸い、よい先生がそろっておられたので、三分の二の課目(かもく)は担当教員の教科書を使用すればよかった。その結果、専門科目は、担当教員の学説の反論を書いて「可」をとった二課目を除けば、すべて「優」であった。
 振り返ってみれば、学部時代は、したいことが山ほどあったのに、できたことはまるで少なかった。
 登山部にも、念願のボート部にも入ることはできなかった。好きな合唱は「早大合唱団」に入ったが、夕方の練習時間に少し顔を出すことしかできなかった。
 しかも、安保闘争が近づくと、それまで出ていなかった四年生がぞろぞろ出てきて「メンデルスゾーンは労働者の歌ではないから、芸能性がない」などと言い始めた。
 バカバカしくて、ぼくは退団した。そして、「早大室内合唱団」を結成したが、一年後、責任者に指名されて、とても勉強とは両立できないと、合唱はあきらめた。
 結局、何を取り何を捨てるか選択する必要がある以上、どちらかを捨てるほかはない。「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」とはこのような心境を言うのであろうか。
<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。80歳。

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