<奥島孝康のさらに向こうへ>パリ大での在外研究(1) 空港に出迎えなく珍道中

2019年12月24日 02時00分
 助教授最後の年(一九七五年)、当時ぼくは法学部の学生担当教務副主任を務めていて、民青系の法学部自治会や全学を牛耳っていたいわゆる革マル派系全学連との身体(からだ)を張っての闘争の毎日であった。
 ある日、恩師の大野実雄先生に呼び出され、急いで出向いてみると、学内でパリ大学との交換研究員の選考があって、君が当選したよ、と告げられた。
 フランス語の会話力はもとより、急なことでその気もなかったので、一瞬迷った。しかし考えてみれば、留学の順番を待てば十年はかかることを思えば、むしろ、いい機会と決意し、西原春夫学部長(後の第十二代総長)に願い出て、七六年の四月に教務主任に昇格したばかりの職を二カ月短縮してもらい、その年の八月一日に、大野先生に見送られ羽田を出発した。
 ぼくとしては、最初から三年間の滞在を予定し、少なくとも一年間は語学の勉強のため単身での滞在を予定していた。
 しかし、妻が国会図書館を休職して、パリ国立図書館の分館でクラマールにある「児童図書館」にスタジエール(実習生)として一緒に出かけることになった。先輩たちの「宴会に弁当をもって行くバカはおらんぞ」というせっかくの忠告(?)はムダとなった。
 ともあれ、家族四人、それぞれがリュックを背負い、両手に持てるだけの荷物をぶら下げ、さながら難民のごとく、ヨタヨタとシャルル・ド・ゴール空港へ到着した。
 出迎えの知り合いがいるわけではなく、安ホテルにたどりつくまでの珍道中は語るも涙だったことはいうまでもない。
 それから一週間はまるで戦争状態であった。ぼくの言うことは何ひとつ相手に通じなかった。相手の言うことはもとより皆目わからない。レストランで食事の注文さえ苦労した。
 あまりにもぼくの対応がたよりなくて、幼い娘(七歳)と息子(三歳)は恐怖を覚えたに違いない。
 なんとかたどりついた安宿「ホテル・ルクルヴ」で一夜明けると隣室の息子がいない。あわてふためいて宿の玄関を飛び出すと、息子が出発時のリュックを背負って座りこんでいるではないか。
 「どうしたんだ」と声をかけると、「お父さん、東京に帰ろうよ」と思い詰めたように言った。あまりにもぼくのパリでの対応が心もとないので、普段はなかなか弱音を吐かない息子も思い余ったのであろう。さすがのぼくもこれには参った。
 発奮したぼくは、到着後三日目にアパートを決め、五日目に家族四人でそのアパートに落ち着き、夕食をとることができた。息子が「お父さん、パリもなかなかいいじゃない」といった。
 これでぼくも、やっと異国での最初の夜を迎えたという実感をもつことができた。
 なぜこんなことになったのかといえば、二人の兄弟子のパリ初体験によると、パリで困ることなど何もないかのようであった。
 しかし、それはいずれも早稲田の先輩たちが出迎えて、万事世話をやいてくれたからであったことを、ぼくはなにも聞いていなかったからだった。
<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。80歳。

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