<再発見!伊豆学講座>伊豆の沼津藩 水野家が幕末まで統治

2021年5月23日 07時43分

沼津城本丸があったことを知らせる中央公園の碑=沼津市大手町で

 江戸時代初めの慶長六(一六〇一)年、大久保忠佐が二万石の城主として沼津に入部した。だが同十八年に死去。無嗣断絶となり城も破壊された。以後、幕府の天領の時期が長く続いた。江戸後期の安永六(一七七七)年十一月、古城跡に水野忠友が城地を与えられて入部、水野家沼津藩が成立した。
 城ができても、収入となる領地がないと成立しない。当初二万石で、伊豆などの天領の村々が割り当てられた。その時、韮山代官に「領地として割り当てて問題ないか」との問い合わせがあり、代官は入城の立ち会いも行った。
 藩祖は水野忠清。忠友の七代前に当たり、二代将軍徳川秀忠に仕えた。上野小幡(群馬県)で一万石、大坂の陣に従軍、その軍功をめぐり一時閉門させられたが、家康の死に臨み、三河刈谷(愛知県)で二万石、さらに二万石の加増があって四万石で三河吉田(同)に移った。寛永十九(一六四二)年、さらに加増されて信濃松本七万石に昇進した。
 享保十(一七二五)年七月、当時の藩主、忠恒が江戸城内で毛利師就(もろなり)を刃傷したことで、領地は没収されてしまう。しかし家の由緒によって、身分を失う改易にはならず、家督を継いだ忠穀(ただよし)が信濃佐久郡で七千石が与えられ寄合、定火消(じょうびけし)、書院番頭、大番頭などを歴任した。息子の忠友の代に至り小姓組番頭などになり加増、三河碧海郡などで合わせて一万三千石を領し、再び大名の列に入った。安永六(一七七七)年、忠友が側用人になるにおよび沼津に城地が与えられた。
 沼津入り後の天明元(一七八一)年、老中格となり、また同五年老中に就任。駿河国駿東、富士、三河国碧海、幡豆、伊豆国君沢、賀茂、田方などで三万石を領し、文政六(一八二三)年一万石の加増があった。
 伊豆では君沢郡中村(三島市中)の鈴木家の屋敷の内に役所を置いた。天明五年の領地となっていた白山堂村(伊豆の国市)の「差出帳」の提出先が中村役所宛になっている。君沢、田方郡などの村々は中村役所が管轄することとなった。
 文政年間に白浜村(下田市)板戸一色に陣屋を設け下河津、稲生沢を治める。弘化四(一八四七)年に作成された白浜村絵図には御役所、御屋敷、兵糧蔵、武器蔵、火薬蔵などが記載されている。沼津藩は下田に砲台場を築き、海防警備に当たった。
 明治になると、水野の領地は菊間藩(千葉県)となる。城主は菊間に移る前、領地であった戸田村名主勝呂家に一時身を寄せていた。伊豆の旧領地はそのまま菊間藩となったが明治四(一八七一)年七月、廃藩置県で消滅した。
 沼津城跡は、沼津市内の御成橋などに名前を残しているが、残念なほど痕跡がない。明治維新とともに、建物全てが売却され、ほぼ何も残らなかったのだ。 (橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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