気がつけば40年(28)8球団競合の野茂を外したダイエーが元木を強行指名した1989年ドラフト

[ 2020年10月29日 08:00 ]

熱望した巨人の1位指名はなく、ダイエーから野茂の外れ1位で指名された元木。1989年11月27日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回はトルネード投法の野茂英雄(新日鉄堺)に史上最多の8球団が競合した1989年ドラフトについて触れたい。

 会場が東京・九段のホテルグランドパレスから紀尾井町の赤坂プリンスホテルに移されたこの年のドラフト。前夜、このホテルに泊まったダイエーの田淵幸一新監督は深夜、元木大介(上宮高)担当のスカウトを部屋へ呼んだ。

 「野茂を外して外れ1位で元木が残っていたら指名したい。どうだ?獲れるか?」

 「大丈夫です。獲れます」

 春夏3度の出場で甲子園通算6本塁打を放った高校球界屈指のスラッガーは10月2日に「巨人に行きたい」と表明。ドラフト前日のこの日も「憧れの巨人に入りたいという気持ちは前と変わっていません。他の球団に指名されたら光栄ですけどショック。困ります。他の球団に行くつもりはありません」と強い意志を示していた。

 しかし、元木は小さい頃ダイエーの前身の南海ファンで、少年野球チームのジュニアホークスに入っていた。指導した球団OBとのパイプもある。担当スカウトは自信を持って田淵監督に「獲れます」と答えたのである。

 11月26日、運命のドラフト当日。野茂には1979年岡田彰布(早大)、1985年清原和博(PL学園)の6球団を上回る史上最多8球団の指名が集まった。

 競合を避けて一本釣りに出たのは4球団。西武が潮崎哲也(松下電器)、中日は与田剛(NTT東京)広島は佐々岡真司(NTT中国)と社会人の即戦力投手を指名し、さて巨人はどう出たか。

 元木ではなかった。大森剛(慶大)を指名したのである。大森は3年春の東京六大学リーグ戦で三冠王に輝いた左の強打者ではあるが、4年生になって評価を下げていた。2位指名でも獲れたはずだが、3年生のときに確約した1位指名に縛られていたのだ。

 「交渉権確定」と入った野茂の当たりくじは、この年リーグ優勝して最後に引いた近鉄の仰木彬監督が射止めた。残り物には福があったのである。

 外れ1位は抽選を外した球団がウエーバー順で指名していくというのが当時の制度。この年の日本シリーズに敗れたパ・リーグの下位球団から順番に名前を挙げていった。

 ロッテが小宮山悟(早大)。大洋は佐々木主浩(東北福祉大)。日本ハムは酒井光次郎(近大)。阪神は葛西稔(法大)。それぞれ大学生投手を選び、ダイエーの順番がやってきた。

 元木が残っている。迷いはなかった。深夜の打ち合わせ通り指名すると、会場は大きくどよめいた。巨人以外の球団から「よくぞ指名した」という声も挙がった。

 全球団の1位指名が出そろったところで休憩に入り、インタビュータイム。田淵監督は「胸ドキドキ、ワクワク。最高だよ。正月が早く来たような気分。こんな華のある選手が残ってるなんて…」と早くも口説き落とした気分で満面の笑みを浮かべた。

 法大4年生で迎えた1968年ドラフト。元木と同じように巨人を熱望しながら阪神に指名され、後ろからハンマーで殴られたようなショックを受けた。水面下で巨人との三角トレードが画策されたが、巨人・沢田幸夫スカウトとの密会がバレてご破算。阪神に入団し、1年目に22本塁打を放って新人王に輝いた。

 そんな経験もあったし、何より担当スカウトは「獲れます」という力強い言葉を信じていた。しかし…。元木の巨人を思う気持ちは想像以上に強かった。「誠意あるのみ。どこへでも足を運びますよ」とその気だった田淵監督の直接出馬はフロントに「新監督に恥をかかせるわけにはいかない」と止められ、実現しなかった。

 「巨人が大森さんを指名したのは、自分に力がなかったからだと思う」と涙に暮れた元木はダイエー入団を拒否し、ハワイで浪人生活を送った。翌1990年のドラフトで巨人から1位指名を受け、晴れて憧れの球団に入団することになる。

 ただ1軍に上がったのは2年目の1992年。15年間の現役生活で規定打席に到達したのは2シーズンだけだった。隠し球を企てたり、頭脳的なプレーで長嶋茂雄監督に「くせ者」と言わせたが、FAで他球団の4番打者が次から次へとやってくる中、内野はどこでもこなすユーティリティープレーヤーの域を越えられなかった。

 元木の巨人入りを1年遅らせる形になった大森はイースタンで本塁打王3回、打点王2回を記録したが、1軍では8年間で123試合しか出場できず、1998年に近鉄へ移籍した。新人イヤーの開幕、ヤクルト戦。同点の9回1死一、二塁の場面に代打でプロ初打席に立った。左中間へ痛烈な打球を放ったが、レフトを守っていた栗山英樹がダイビングキャッチ。超ファインプレーに阻まれて乗り損ねた。

 もし巨人が1989年のドラフトで1位・元木、2位・大森で2人を獲っていたら、どうだったか。元木は1年を無駄にすることなく、大森も1位指名の重圧から解放されて違った現役生活が送れたような気がする。

 しかし、ものは考えようだ。元木は昨年、内野守備兼打撃コーチとして現場に復帰し、今年はヘッドコーチに昇格。「くせ者」の知恵を使って原辰徳監督を支えている。大森も統括スカウト兼国際部課長として選手獲得に尽力。本家・坂本勇人の才能を見い出し、守護神のルビー・デラロサを連れてきた。

 イマイチな現役時代が現在の貢献につながっていると思えば、巨人にとって悪いドラフトではなかったのかもしれない。

 一方、元木にフラれていきなり躓いたダイエーの田淵監督は1990年6位、91年5位、92年4位。ひとつずつ順位を上げながらも3年契約を満了してお役御免となった。

 野茂は8球団が競合するにふさわしい投手だった。1年目にいきなり18勝8敗、防御率2・91、287奪三振で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠を独占し、新人王、沢村賞、MVPに輝いた。

 4年連続で最多勝と最多奪三振のタイトルを奪い続け、1995年には日本人大リーガーのパイオニアとして太平洋を渡り、メジャー通算123勝を挙げた。日本での78勝と合わせて201勝。2014年に日本の野球殿堂入りを果たした。

 この野茂をはじめとして1989年はドラフトの当たり年だった。外れ1位組のロッテ・小宮山、大洋・佐々木は大リーグも経験。競合を避けて単独1位指名された中日・与田と広島・佐々岡の2人は現在それぞれ古巣の監督を務め、ヤクルト2位の古田敦也(トヨタ自動車)も現役兼任で監督を経験した。

 その他、近鉄3位の石井浩郎(プリンスホテル)、広島4位の前田智徳(熊本工)、阪神5位の新庄剛志(西日本短大付)は当時の球界を代表する打者になった。

 ドラフト史上一番の豊作と言われるのは1968年。阪神1位の田淵幸一(法大)、広島1位の山本浩二(法大)、中日1位の星野仙一(明大)、阪急(現オリックス)1位の山田久志(富士鉄釜石)、同7位の福本豊(松下電器)、西鉄(現西武)1位の東尾修(箕島高)の6人が野球殿堂入りしている。

 監督経験者も田淵、山本、星野、山田、東尾にロッテ1位の有藤通世(近大)と中日3位の大島康徳(中津工)を加えて6人。その他、阪急2位の加藤秀司(松下電器)、東映(現日本ハム)1位の大橋穣(亜大)、同4位の金田留広(日本通運)らいい選手が山ほどいた。

 1989年ドラフト組も野茂、佐々木、古田の3人が野球殿堂入り。1968年に次ぐ豊作年だと思っている。=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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