事業名:茨城採炭株式会社
茨城採炭磯原駅石炭積込場
北茨城市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の磯原駅を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.191 茨城採炭株式会社
画像名:茨城採炭磯原駅石炭積込場
文献に記載されている解説文等:
東京府北豊島郡南千住町大字地方橋場
 同会社の礦区は明治二十六年試掘出願を為したることあれど、当時茨城炭の需用未だ幼稚なりしを以て、開坑するに至らざりしが、三十四年三月阿部吾市、坂市太郎の両氏之が試掘に着手せしに、其結果意外に良好にして品質善良なるのみならず、炭層厚く前途頗る有望なる礦区と確認せしかば、資本金十六万円を以て男爵渋沢栄一、浅野総一郎、故西園寺公成、佐久間精一、阿部吾市、岡本儀兵衛、坂市太郎の諸氏発起人となりて創立したるものなり。爾来漸次発展して現今七十万円の株式会社と為り、主として該炭需用の拡張を計り、男女七百余名の坑夫を使役して其採炭に従事しつゝあるが、一日の出炭高約三十五万斤にして、一箇月一千万斤、一箇年には一億二千万斤(七万二千噸)以上に達し、該地方に於て出炭と売炭とを併せて実に其第一位を占むるに至れり。而して同会社の礦区は茨城県多賀郡北中郷村及び松岡村に在り、其特許坪数二百五十万余坪に達す。
 明治四十年十一月陸軍特別大演習の際、特に国産物として同会社の石炭を結域行在所に出陳の栄を賜はり、且つ専務取締役阿部吾市氏が特別の御思召に由り、県下実業家として 陛下の御召出を蒙りたるは洵に同会社の光栄と云ふべし。
 専務取締役 阿部吾市
 取締役 佐久間精一
 取締役 岡本儀兵衛
 監査役 浅野総一郎
 監査役 鹿島岩蔵
 相談役 男爵 渋沢栄一
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渋沢ゆかりの地

事業名:茨城採炭株式会社
茨城採炭磯原駅石炭積込場
北茨城市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の磯原駅を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.191 茨城採炭株式会社
画像名:
茨城採炭磯原駅石炭積込場
文献に記載されている解説文等:
東京府北豊島郡南千住町大字地方橋場
 同会社の礦区は明治二十六年試掘出願を為したることあれど、当時茨城炭の需用未だ幼稚なりしを以て、開坑するに至らざりしが、三十四年三月阿部吾市、坂市太郎の両氏之が試掘に着手せしに、其結果意外に良好にして品質善良なるのみならず、炭層厚く前途頗る有望なる礦区と確認せしかば、資本金十六万円を以て男爵渋沢栄一、浅野総一郎、故西園寺公成、佐久間精一、阿部吾市、岡本儀兵衛、坂市太郎の諸氏発起人となりて創立したるものなり。爾来漸次発展して現今七十万円の株式会社と為り、主として該炭需用の拡張を計り、男女七百余名の坑夫を使役して其採炭に従事しつゝあるが、一日の出炭高約三十五万斤にして、一箇月一千万斤、一箇年には一億二千万斤(七万二千噸)以上に達し、該地方に於て出炭と売炭とを併せて実に其第一位を占むるに至れり。而して同会社の礦区は茨城県多賀郡北中郷村及び松岡村に在り、其特許坪数二百五十万余坪に達す。
 明治四十年十一月陸軍特別大演習の際、特に国産物として同会社の石炭を結域行在所に出陳の栄を賜はり、且つ専務取締役阿部吾市氏が特別の御思召に由り、県下実業家として 陛下の御召出を蒙りたるは洵に同会社の光栄と云ふべし。
 専務取締役 阿部吾市
 取締役 佐久間精一
 取締役 岡本儀兵衛
 監査役 浅野総一郎
 監査役 鹿島岩蔵
 相談役 男爵 渋沢栄一
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