南海、ダイエー、オリックスでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去した。74歳だった。門田氏の南海在籍時に本紙で担当記者を務めたサンケイスポーツの畑恵一郎代表(58)が、親子2代にわたる門田氏とのつながりを振り返った。1979年のアキレス腱断裂後、父・佳成さんが外科医として治療にたずさわった。
あれは入社2年目を迎える1988年の4月からだった。一般スポーツ担当から南海担当を命じられた。
それが親子2代にわたるカド(門田)さんとの付き合いだった。
亡き父は外科医だった。南海の大方キャンプでアキレス腱を断裂したカドさんの治療を担当した。その後、カドさんに教えてもらった話だが、ホームラン打者へ変わるキッカケを作ったそうだ。
「アキレス腱切って、もうアカンと思ったんや。お父上に『先生、僕はこれからどないしたらいいんですか』って聞いた。そしたらこう言ってくれた。『そんならホームラン打ったらええ。走らんですむがな』って。あれで踏ん切りがついたわ」
その後のカドさんの長距離砲としての活躍、不惑の2冠王など勲章の数々はここで書く必要はない。亡き父の言葉が本当に後押しになったか、わからないが、愚息としてカドさんが活躍する度に、取材する立場とは別に、誇らしげな感覚が胸に残ったのも事実だった。
もちろん、父親からの関係で記者である私をえこひいきするような人では決してなかった。どころか、とんでもなく取材しにくい、駆け出しの私には怖い、ややこしく、わがままで難解な存在だった。