タイソンを取材するため度々、米国へ足を運んだ。トレーナーにたたき込まれたピーカーブースタイル(グローブをあごの下で構え、頭や肩を小刻みに振りながら相手のジャブ、ワンツーをかいくぐって中に入る)、磨き抜かれた技術と圧倒的なスピード。すべての面で過去のヘビー級ボクサーを超越する才能にあふれていた。
ニックネームは「野獣」。ところが、来日時は別人のような印象を受けた。「試合前のスパーリングでダウンした。無駄のない動きからの連打が武器だったが、スピードもなく荒っぽいスタイルで、ボクシング全体のバランスが崩れていたと思う。タイソンの負けだと直感した」
生中継する米ケーブルテレビ局HBOが、東海岸のゴールデンタイムに試合開始を合わせてほしいと要望したことから、ゴングは午後0時27分に鳴った。その37分後、会場は一瞬の静寂に包まれた後、叫声が響いた。リングに大の字に倒れたのは…宮崎の予想した通り、タイソン。無敵神話が日本で崩れ去ったのだ。
一方、勝敗とは別のところで頭を抱える男がいた。タイソンの1988(昭和63)年3月の世界戦に続いて、この試合を実現させた東京ドームの興行企画部長だった秋山弘志(80)だ。
「88年の初来日は東京ドームのこけら落としイベントとしても成功し、ドームの名を世界に売ることができた」
タイソンが初めて米国以外で行った試合は10万円もするリングサイドを含め、チケットは発売から3日で完売。グッズ販売などを含め、1日で15億円を稼ぎ出した。