おかげで「だれが一発屋やねん!」なんてやりとりがウケまして、深夜に紳助さんと2人のトーク番組をやらせてもらったりして、だんだん関西でレギュラー番組を持たせてもらうようになって。やしきたかじんさんや上沼恵美子さんにもかわいがってもらいました。
32、33歳の頃にはテレビで冠番組もあってレギュラーが7、8本。1週間、毎日生放送がありました。ラジオも入れたら15、16本。でも、仕事があるのがうれしかったし、寝不足が続くのもうれしかった。なにしろ、東京でどん底を見てきましたから。司会、パネリスト、リポーター。いろいろやらせてもらいました。こんな生活が45歳くらいまで続きましたね。
ただね、本業は音楽だと思ってます。大阪に帰った直後、ポニーキャニオンの宣伝担当の方が連絡をくれましてね。森昌子さんに曲を書いてくれないかと、石原信一さんの詞を渡されました。当時は大滝詠一さんが森進一さんに「冬のリヴィエラ」を提供したり、シンガー・ソングライターが演歌を書くのがはやっていたんですね。