福嶋敏雄の三都物語

釜ケ崎 サビついた「怒り」と「諦め」

 かくして僻村(へきそん)の小字名にすぎなかった「釜ケ崎」は、明治末から大正、昭和にかけて、社会学だけではなく、犯罪学、建築学、都市計画学、衛生学、教育学、人口統計学、文学などの対象として、たびたび俎上(そじょう)にのせられた。

要塞のような警察署

 銀座通りをさらに行くと、右手には一帯を睥睨(へいげい)するような大きな建物があった。西成警察署である。要塞のような外観で、気軽に入れるような雰囲気ではない。鉄柵には「薬物撲滅作戦推進中」という横断幕が掲げられていた。

 薬物とはおもにシャブ、つまり覚醒剤のことだ。「粉もん文化」を誇る大阪には、覚醒剤という「粉もん犯罪」も多発した。かつては路上などで日常的に売られ、「ニイチャン、あるでぇ~」と、なんどか声をかけられた。

 建て替えまえの西成署には1年半ほど、毎日のように通った。洋風のファサード(玄関口)はスロープ式で、1階が「∩」字形の公廨(こうかい)(大部屋)。わきに労働者からの相談などを受けつける防犯コーナーがあり、その先の右手に細長い記者室があった。せますぎるため、各社とも常駐はせず、薄汚い作業服置き場になっていた。

 昭和47年から48年にかけての夏場には連日、夕方になると、常駐先の動物園記者クラブからやって来て、ここで着替えたうえ、タオルを巻いて、署の外に繰りだした。蓬髪(ほうはつ)のうえ、身なりにもこだわらないタチだったので、公廨の中央奥に座る副署長から「サンケイさんは、着替えんでもイケルで」と冷やかされた。

 暴動は届け出デモとはちがい、どこで起き、どこへ移動するのかも分からない。当然、群衆のなかにもぐって取材しなければならない。そのためには労働者風の服装に着替える必要があった。

 「西成暴動」と呼ばれる暴動は昭和36年の第1次から、平成20年の第24次までつづくが、そのなかでも最大規模は第14次(47年5月)から第21次(48年6月)にかけての暴動だった。そのすべてに付きあわされた。パターンはだいたい同じだった。

「こいつ、ブンヤや!」

 夕方、署のまわりに群衆が蝟集(いしゅう)(警察用語)しはじめ、やがて数百人ほどにふくれあがる。そのうち、「やってまえっ!」と自転車などが投げつけられ、投石がはじまる。市バス車庫周辺に待機していた機動隊が「ドッドッドッドッド!!」と地響きをたてて駆けつけ、すさまじい排除活動が展開される、というパターンだ。

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