生活保護を問う・外国人受給者(下)

泡と消えたデカセギ神話、日系ブラジル人女性が家族より日本の生活保護にすがる「理由」

 経済大国ニッポンで働こうと、競うように海を渡った日系人らが不況のあおりを受け、生活保護になだれ込んでいる。地球の裏側で盛んに飛び交った「デカセギ」という言葉に、かつてのような希望の響きはない。外国人受給者は7万人を超える。仕事に就くために来日した外国人たちだが、失業すれば、行き着く先は日本の保護制度だった。

 日系2世のハヤシ・マルシアさん(62)=仮名=も、ブラジルでは得られない収入を求めて日本に渡ったデカセギ労働者の一人だった。それから22年。思い描いた生活は手からこぼれ落ち、今は生活保護で暮らしている。

3人の娘、学費を用立てるため

 「お母さん。私、学校に行きたい」

 1991(平成3)年のサンパウロ。40歳になるかならないかのころ、その一言が渡日の決め手となった。3人の娘は当時9~17歳。夫の稼ぎでは食事も満足に与えられなかった。

 先に愛知県に渡った弟からは「給料がいい」と聞いていた。娘の高等教育費を用立てる手段は、デカセギ以外に思いつかなかった。

 その1年前の平成2年、日本では改正入管難民法が施行。日系人に就労制限のない定住資格が広く認められるようになり、日系ブラジル人や中国残留邦人の訪日、親族呼び寄せが活発化した。

 法改正は労働者不足に悩む当時の経済界の意向を受けたもの。日本の若者が寄りつかなくなった3K(きつい、汚い、危険)の職場で、歯車となって働いたのが外国人労働者だった。

夫が愛人、暗転する人生

 ハヤシさんの就職先は埼玉県内にある食品工場に決まった。同僚の多くがブラジルやペルー、中国の日系人たちだったという。仕事は鶏のもも肉を薄くのばしたり、冷凍のチキンカツを弁当用に切り分けたりする単純労働。寮に住み込み、残業もいとわなかった。

 給料は手取りで30万円前後。母国と比べると破格の待遇だった。ハヤシさんは家賃や食費を除いた約20万円を3人の娘にせっせと送った。

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