特攻のための特攻 義烈空挺隊の遺言

(下)飛行場へ強行着陸 3度目命令「淡々と」出撃

昭和20年5月24日、熊本・健軍飛行場で爆撃機に乗り込み沖縄へ出撃する義烈空挺隊員 (小柳次一氏撮影、平和祈念展示資料館提供)
昭和20年5月24日、熊本・健軍飛行場で爆撃機に乗り込み沖縄へ出撃する義烈空挺隊員 (小柳次一氏撮影、平和祈念展示資料館提供)

 太平洋のサイパン島と硫黄島への攻撃が中止となり、出撃の機会を失った旧日本陸軍の特殊部隊「義烈空挺隊」は、駐屯する唐瀬原飛行場(宮崎県)に戻り、訓練に励む中で苦悩の日々を送った。

 挺進集団の精鋭たちで編成されたにもかかわらず、日々戦況が悪化する今も基地でくすぶっている。他の部隊からは「出戻りの特攻隊」と冷めた視線を浴び、部隊名をもじって「愚劣食い放題」と自嘲する隊員もいた。

 特攻隊の歴史を伝える知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の八巻聡専門員(44)は「義烈空挺隊は結局、戦争末期まで出番がなかった。何とか空襲を食い止めるための行動をとりたいという思いは強かったのでしょう」と話す。

 ◆「見るに忍びず」

 昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始した。北飛行場(後の読谷補助飛行場、現在は日本に返還)と中飛行場(現嘉手納飛行場)の確保が第1目標とされた。

 米軍は、その日のうちに両飛行場を占領。これを足掛かりに防空網を形成し、日本軍の特攻を主体とする沖縄方面への航空作戦に大きな打撃を与えた。

 沖縄の戦況が悪化する中、福岡の陸軍第6航空軍内には敵基地を攻撃するため「今こそ義烈空挺隊を投入すべき」との意見が浮上した。

 当初、大本営は本土決戦に備えて義烈空挺隊を温存するもくろみで、沖縄への投入には消極的だった。しかし、第6航空軍司令官、菅原道大中将の「特攻部隊に指定されたうえ、作戦中止命令を受けること再三に及び、もはやこれ以上見るに忍びず」との同情的な意見もあり、20年5月17日に作戦が認可された。

 義烈空挺隊と、飛行機の操縦を担う第3独立飛行隊は、それぞれ出撃基地となる健軍飛行場(熊本県)へ移動し、その時を待った。

 作戦は「義号作戦」と名付けられた。

 「義号部隊(義烈空挺隊と第3独立飛行隊)ヲ以テ沖縄北・中両飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ 其ノ機ニ乗ジ陸海航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」

 義号部隊の突入によって飛行場の機能をマヒさせ、その間に陸海軍総力を挙げた特攻を仕掛ける。義烈空挺隊の役目は、その後の総攻撃の戦果につなげる「特攻のための特攻」だった。

 作戦は2段階で、義烈空挺隊には、「特攻の先」の任務も課された。飛行場を破壊した後は、北飛行場の東北約5キロの地点にある「220・3高地」付近に向かいゲリラ戦を展開することが求められた。

 ◆共闘の海軍翻意

 2度の作戦中止を経て、ようやく出撃の機会が訪れた。

 長野県飯田市出身の今村美好少尉(享年27)は、兄と姉に宛てた手紙に、当時の心境をつづっている。

 「遂に待望憧れの大命降下(中略)任務を完全に果し快(よろ)こんで悠久の大義に生る軍人の本分を盡(つく)します(中略)淡々とした心境で何時も変らぬ朗らかな美好ですから決して御心配なく でわくれぐれも御躯(からだ)御大切にお暮し下さい でわお別れします」

 作戦決行日は5月22日の予定だったが、天候不良で2度延期された。

 出撃が目前に迫った24日午後、味方の海軍が思わぬ行動に出た。

 「沖縄東方において敵機動部隊を発見 ただちに菊水作戦(特攻)を発動する」

 海軍は単独で特攻に打って出るので、義号作戦は陸軍だけでやってくれということだった。陸軍は憤慨したが、これ以上の作戦延期は困難だった。

 ◆突入112人が散華

 24日午後6時40分、1機に14人が乗り込んだ全12機の爆撃機が、約750キロ離れた沖縄に向けて健軍飛行場を飛び立った。

 途中、爆撃機の故障などで4機が引き返し、残る8機が北、中両飛行場に突入を試みた。

 午後10時ごろ、夜更けの北飛行場に1機が胴体着陸した。隊員たちは機体から飛び出し、米軍の飛行機を破壊した。

 急襲された混乱した米軍は周囲の飛行場に緊急を告げる電文を打った。

 「北飛行場異変あり」

 「在空機は着陸するな」

 突入に成功したのはこの1機だけで、残る7機はあえなく撃墜された。

 米軍側の被害は戦死者2人、飛行機33機を失った。北飛行場は翌25日午前8時まで使用不能となったが、27日には完全復旧した。

 一方、義号部隊は総勢168人のうち、引き返した4機に乗っていた56人を除き、突入に挑んだ112人全員が命を落とした。

 義烈空挺隊の隊員は、ほとんどが20代の青年だった。国や家族を思い、若くして勇敢な死を遂げた。

 宮崎市出身の阿部忠秋大尉(享年22)は、残される弟の「高美ちゃん」と妹の「リツちゃん」へ、最後の手紙を宛てていた。

 「高坊ヘハ何モシナクテスマナカツタネ 大キクナツタラ 立派ナ兵隊サンニナツテ兄サンナンカヨリモツトモツト頑張ツテクレ」

 「リツちゃんへ 父母上様、高坊を宜しくたのむ と云っても出来れば早く嫁に行きなさい 何もしてやれずすまなかった 体には呉々も気をつけて しっかりやれ さようなら」

 (この連載は小沢慶太が担当しました)

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 知覧特攻平和会館では、企画展「父の遺言-義烈空挺隊の真実-」が開催されている。9月30日まで。

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