勇者の物語

無冠の帝王 現れた「希望の光」 虎番疾風録番外編42

灰色の阪急を支えた梶本隆夫
灰色の阪急を支えた梶本隆夫

■勇者の物語(41)

多くの選手を引き抜かれた阪急は、なかなか立ち直ることができなかった。2リーグ制に移行した昭和25年が4位。26年5位、27年5位、28年2位、29年5位…。「灰色の阪急」と呼ばれ始めたのもこの頃からである。

これといったスター選手もおらず、強くもなければ弱くもない。白でもなく黒でもない、いわゆる中途半端で地味な「灰色」というわけだ。

そんな阪急に〝希望の光〟のように登場したのが、29年に入団した梶本隆夫である。岐阜県の多治見工時代から、大きくゆったりとした投球フォームで、右打者の膝元へ投げ込まれる速球には定評があった。入団の際の有名な逸話がある。

梶本は阪急、中日、巨人3球団から誘われた。阪急の提示額は契約金50万円。中日は120万円、巨人が200万円。梶本は一番安い阪急を選んだ。

「高いお給料をもらってもしダメだったら申し訳ない。なら、一番安いところへ」という母の言葉に従った。

中学生の頃に父を亡くし、女手ひとつで育ててくれた母の思いに沿うことが、梶本の親孝行だったのだ。

18歳の左腕は開幕投手に抜擢(ばってき)された。3月27日、本拠地・西宮球場に高橋ユニオンズを迎えての開幕戦。6回を3失点に抑え5-3と見事、初陣を飾った。活躍は止まらない。オールスターまでに12勝を挙げると、ファン投票1位で球宴に出場。1年目に20勝(12敗)を挙げたのである。だが「新人王」は26勝9敗、防御率1・58をマークした南海の宅和本司が獲得した。

梶本は「無冠の帝王」と呼ばれた。阪急在籍20年、通算254勝(255敗)。「名球会」入りした投手の中で、タイトルがないのは梶本一人だけ。こんな逸話も残っている。

3年目の31年シーズン、大映の三浦方義(まさよし)と最多勝を争っていたときのことだ。終盤、西村正夫監督はタイトルを取らせるため、勝ちゲームでのリリーフ登板を命じた。ところが梶本は「ほかの人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と断った。結局、28勝止まり。最多勝のタイトルは29勝の三浦が獲得した。

「欲がない」という言葉が適切かどうかはわからない。ただ、勝ち星にこだわらなかった大投手・梶本隆夫の心の中には、常に「50万円の阪急」を選んだ母の言葉が生きていたのかもしれない。(敬称略)

■勇者の物語(43)

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