100年の森 明治神宮物語

復興(5)よみがえった威容 新時代へ船出

【100年の森 明治神宮物語】復興(5)よみがえった威容 新時代へ船出
【100年の森 明治神宮物語】復興(5)よみがえった威容 新時代へ船出
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 社殿が再建された明治神宮で、昭和33年10月31日に執り行われた本殿遷座祭遷御(せんざさいせんぎょ)の儀には、全国から6千人余りが参列した。明治神宮復興奉賛会の会員や大口の寄付者、経済団体幹部ら復興を支えた人々が見守る中、午後8時から儀式は厳かに始まった。空襲によって主要社殿が焼失した夜から、13年半が過ぎていた。

 参列者の中に、儀式の様子に目を見張る16歳の少年がいた。

 「ちょうどいい星空でした。赤い装束の皆さん(神職)が、暗闇の中で、仮殿から本殿へ御霊代(みたましろ)を遷(うつ)すのが見えるんです。父がどこにいるかは、すぐに分かりましたよ。背が高かったので」

 少年は、脳神経外科医として国内外で活躍する福島孝徳さん(77)。父親は、当時47歳で後に明治神宮宮司となる福島信義禰宜(ねぎ)だ。空襲の夜、消火に奔走し、御霊代がある御宝庫に火が迫るのを見て、緊急の遷御を進言した人物でもある。

 ◆予算6億、寄付集め奔走

 信義さんは神職の傍ら、28年7月に設けられた復興奉賛会の事務局長を務め、30年には臨時造営部総務課長に就くなど復興に向けた事務を担った。最大の課題は、6億円と算定された復興予算の調達だった。国家から切り離された明治神宮は、これを主に寄付でまかなうしかない。

 財界の法人募金が1億5千万円、都内の各世帯から1億5千万円、全国道府県市町村の世帯から3億円の寄付を集める方針が決まった。しかし、当時は各地の氏神神社の復興や公共施設の建設など複数の募金運動が並行し、地方でも風水害が相次ぐなどの悪条件が重なり、「奉賛運動の前途は容易ならぬものがあった」(「明治神宮五十年誌」)という。

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