「平和」訴え、ショービジネスに懸けた人生 ジャニー喜多川さん

 ジャニー喜多川さんは米ロサンゼルスで生まれ、幼少期に日本に来た。戦時中は両親の地元とされる和歌山県に疎開し、空襲にも遭遇したという。

 終戦後に渡米し、ロサンゼルスで教育を受け、その後も現地に在住。米国では、美空ひばりさんら日本人歌手の訪米公演を手伝った。このことが、日本で芸能事務所開設を目指すきっかけとなったという。日本に帰国後、日本芸能界を革新する変化を次々ともたらした。

 昭和37年、教えていた野球チームの中から選んだ青井輝彦(あおい輝彦)さんら4人の無名の少年たちに歌とダンスを猛特訓し、日本初の歌って踊れる男性アイドルグループ「ジャニーズ」をデビューさせる。昭和50年代以降、トップアイドルグループを次々に育成し、芸能界で不動の地位を築く。

 昭和時代の末には、単なる美少年集団から脱皮させ、「アイドルの多様化」を進めた。その象徴的存在が木村拓哉さんらで63年に結成した「SMAP」だった。

 「芸能活動も時代とともにどこまでという線引きも不可能なくらい進歩・開発・多様化されています」。平成30年9月、滝沢秀明さんが引退表明し後継者宣言をした際、ジャニーさんが企業公式サイトに記した言葉にも、先駆者としての自負と実感が込められる。

 男性アイドルの名伯楽としての積み重ねが「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」など、「ギネス」認定にもつながった。

 近年は28年のSMAP解散、30年にはTOKIOのメンバーが女子高校生への強制わいせつ容疑で書類送検されるなど、ジャニーズ事務所の屋台骨を揺るがすようなスキャンダルもあり、対応に追われた。

 最近までジャニーズタレントのステージを現場で見ていた。座右の銘「ショー・マスト・ゴー・オン(ショーは何があろうと続けなければならない)」を実践、最後まで現役を貫いた人生だった。

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