酒井孝太郎の視線

自死という「生きざま」の問い

西部邁(桐原正道撮影)
西部邁(桐原正道撮影)

哲学者・社会思想家の須原一秀氏は平成17年の夏から秋にかけ、3人の友人に自死の決行を告げた。自分の決心が本物かどうかを確かめ、そのことを客観化するためだった。

これまで人生の「極み」は幾度も味わった。自分の高(たか)も知った。老いや衰えが忍び寄る中、「穏やかな自然死」など神話にすぎず、むしろ長時間の耐え難い苦痛が終末期に待ち受けているのを想像できる。ならば、そろそろ自ら幕を引いてもいいのではないか-。

須原氏は「新葉隠」と題した文書にも思いを刻み、「武士道」になぞらえて「老人道」を説いた。

《人生を愛し、人生からの愛も素直に受け入れ、そして時折の人生の冷たさや厄介なわがままも耐え忍び、また時折は情熱的に与えてくれる人生からの愛に満喫し、やがてはそんな「愛の交歓」も永遠に続くわけではないことを悟り、間髪を入れずに死んでいく人間には(中略)逡巡(しゅんじゅん)も疑問もまったく関係ないのである》

翌年4月初旬、妻子を残して逝った。頸(けい)動脈を刃物で切り裂き、首をつって縊死(いし)。65歳だった(同氏著『自死という生き方』)。

保守思想家の西部邁氏もまた、凄絶(せいぜつ)な形で78歳の生涯を閉じた。今年1月21日午前0時ごろ、長女と一緒に訪れていた東京・新宿のバーを出た後、「人と会う約束がある」と言って長女を先に帰宅させた。その後、知人の男2人=自殺幇助(ほうじょ)容疑で逮捕=と合流し、レンタカーで多摩川に移動。同日朝に川面に浮かぶ状態で見つかり、病院で死亡が確認された。知人らは工事現場用のハーネスを着用させ、ロープで土手の樹木につなぐなどして自殺を手助けしたとみられる。顔は毛糸のネックウオーマーで覆われ、口の中には小瓶が入っていた。

西部氏の自死への構えは、55歳の頃におおよそ定まっていたという。その当時に著した『死生論』では、自死を「簡便死」と表現している。

《死は「断ることのできない訪問客」である。そのことを、戦後日本人は職業から引退したあとの老人ホームや救急車で運ばれたあとの病室で知るのである。私のいう簡便死はそのようにしてやってきた死に、独力で対処するためのものだ。窮余の一策として、孤独な死における恐怖を果敢に克服するためのものである》

平成26年に妻を亡くした後、さらに決意を固めていった。生きることそれ自体に価値を置く「生命至上主義」を忌み嫌い、「生き方としての死に方」を説き続けた西部氏。自死は主張の体現だった。

「助太刀」の依頼は、手が不自由となっていたため避けがたかったに違いない。がんの末期に拳銃自殺を遂げたノーベル物理学賞の受賞者、パーシー・ブリッジマンは、西部氏の苦悶(くもん)に連なるような、こんなメモを書き残している。

「このようなことを個人に独力でさせる社会は、やさしいとはいえない。今日を最後として、私には1人でそれを実行できる体力はなくなるだろう」

厚生労働省のまとめによれば、自殺者は平成10年以降、年間3万人以上で推移していたが、22年からは8年連続で減少。昨年は2万1千人あまりで、40代が全体の17・2%、次いで50代が16・9%、60代が15・7%、70代が13・7%だった。原因・動機別では「健康問題」「経済・生活問題」「家庭問題」「勤務問題」の順となっている。

人口減と超高齢化を鑑みると、絶対数の減少傾向は慰めにならず、むしろ深刻なテーマと捉え続ける必要がある。それゆえ自ら命を絶つ行為を是とするのは極めて不用意だ。ただ、厭世(えんせい)でも虚無でもない、ある種の美学を抱いた西部氏らの最期をさげすむことなどできない。「では、おまえはどう生きているのか」。泉下からの鋭利な問いが眼前に突き付けられているのだ。(社会部次長・酒井孝太郎 さかいこうたろう)

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