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最後の将軍・慶喜が晩年こよなく愛した乗り物は? 籠、馬、船、それとも… 静岡市が復活プロジェクトを始動

【ローカルプレミアム】最後の将軍・慶喜が晩年こよなく愛した乗り物は? 籠、馬、船、それとも… 静岡市が復活プロジェクトを始動
【ローカルプレミアム】最後の将軍・慶喜が晩年こよなく愛した乗り物は? 籠、馬、船、それとも… 静岡市が復活プロジェクトを始動
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大政奉還で江戸を去り、駿府(静岡市)に移った最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)公は、自転車を乗り回していた。籠、馬、そして、鳥羽・伏見の戦いに敗れた際には、船で大阪から逃げ帰った慶喜だが、家臣とサイクリングに興じる姿は、想像すると面白い。静岡市も、県内で初めて自転車に乗ったとされる慶喜の自転車を復刻するプロジェクトを始動させた。「けいきさんの自転車」は、どんな形だったのだろうか?

「世界水準の自転車都市」を目指す静岡市。同市は、徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環で、市内外から慶喜の愛車に関する情報や資料を広く収集し、技術者を探して年内にも復刻に着手する。

地元では、親しみを込めて「けいきさん」と呼ばれる慶喜は、慶応3(1867)年に大政奉還を行い、翌年に江戸城が明け渡されると、家康が晩年を過ごした駿府に移り住み、晩年に都内に戻るまでの約30年を過ごした。

政治から離れた慶喜は、駿府で写真、狩猟、囲碁…と趣味に没頭する生活を送った。自転車もその一つで、明治10~12年ごろ県内で初めて自転車を入手し、市内を走り回ったと伝わる。

静岡市は坂が少なく、風も弱くて雪がほとんど降らないため、全国的にもめずらしいほど貸し自転車が普及し、庶民の利用も盛んだったという。こうした同市の自転車文化に、慶喜が与えた影響は大きい。

後に編纂された「静岡市産業百年史」には、「明治12年、徳川慶喜 鉄輪の自転車へ乗る」と記され、「静岡県自転車軽自動車商業協同組合の創立80年記念誌」では、明治10~12年に自転車を入手したとされている。

さらに、明治20年の新聞には、「慶喜公が運動のため、自転車を乗り回されている」との記述がある。慶喜公が晩年を過ごした屋敷跡「浮(ふ)月(げつ)楼(ろう)」では、同年のものとされる前輪が後輪の数倍大きい、「ダルマ型自転車」に乗る様子を描いた絵が伝わる。

こういった資料をもとに、復刻プロジェクトを進める静岡市は「明治20年に慶喜公が自転車に乗っていたことは間違いなく、明治10年代にすでに自転車を入手していた可能性が高い」と考えている。ただ、明治20年以降の資料は比較的そろうものの、明治10年代の信頼できる資料はほとんど残っていない。

日本における自転車の歴史をひもとくと、明治10~12年は、自転車の車輪が木製から鉄製に移り変わる過渡期だった。形状も、「ダルマ型」と、さらに古いタイプの「ミショー型」が混在していた。

逆に、明治20年にはすでに、「ダルマ型」よりも新しい、「セーフティー型」と呼ばれる現在の自転車に近い形状のものが出回っていた。このため、「新しい物好きで身長が低く足も短かった慶喜公が、古いタイプで乗りづらい、ダルマ型に乗っていたとは考えにくい」との考察も有力だ。

このような資料を参考にしつつ、静岡市は「けいきさんの自転車」復刻に向け、慶喜公が乗ったとされる「静岡県初の自転車」についての情報提供を求めている。特に、明治10年代に慶喜公が自転車に乗っている写真▽当時の自転車の形状▽慶喜公が走ったコースや立ち寄った店-についての情報が不足しているという。

情報提供を求める一方、市も独自調査を始めた。東京や大阪の自転車関係の資料館に出向いて、当時の静岡の自転車事情や慶喜についての記録を確認し、学芸員への聞き取り調査を行った。

市交通政策課の大石博之係長は「静岡県初の自転車は本当に鉄輪だったのか、実は木製だったのか。どんな形だったのか-史実に忠実に再現し、復刻したい」と、愛好家に協力を呼びかけている。(田中万紀)

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