正論

「特殊な国」からの脱皮を目指せ 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛

 ≪過大視される知識人の発言≫

 戦後70年、過去に2回、わが国は安全保障政策上の重大決断を迫られました。最初は昭和26年のサンフランシスコ平和条約と(旧)日米安保条約の調印で、これは吉田茂首相の功績でした。次には昭和35年に、岸信介首相が手がけた現行の日米安保条約の署名を挙げるべきでしょう。ともに、順風満帆の下での決断ではありません。

 吉田首相は米国をはじめとする「多数派」との講和を達成したのですが、反対派はそれを「単独」講和だと謗(そし)り、「全面」講和が必要なのだと主張しました。議論白熱のあまり、同首相は「全面」派の南原繁東大総長を「曲学阿世」と決めつける騒ぎでした。

 岸政権の安保改定努力が世論の反発を買ったことは、記憶に新しいでしょう。国会は連日連夜、いわゆる「革新」勢力の反対デモに包囲され、混乱の中で東大女子学生が死亡する悲劇も起きました。知識人の多くは反対、花形評論家・清水幾太郎氏や中野好夫氏らが活躍しました。

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