[第97話]新たな藩に仲間入り 菊間藩から村松藩へ

 明治初年、新政府は戊辰戦争で没収した旧幕府領のうち要地を府、そのほかを県としましたが、諸藩では各大名が統治する体制が従来のまま存続していました。政治的統一を目指す新政府は、版籍奉還や直轄地の拡大・一円化によって諸藩を徐々に直接統治に組みこむ方針を立てます。明治3年(1870)、越後国にも支配替えという形で新政府の手が加わります。

 明治3年4月15日、阿賀野川河口で行われる諸回船の商い取締りや外国人遊歩区域にかかわる問題対応の迅速化のため、新潟県知事が新発田藩領沼垂村(現新潟市)とその周辺の支配替えを民部省に求めました。民部省を経て太政官は、明治3年7月8日に菊間藩(沼津藩)(注1)へ、越後にある支配地を新発田藩・村松藩に引き渡すように命令しました。この支配替えで、文政12年(1829)から菊間藩の領地であった吉沢村(現五泉市)は村松藩の領地となりました。

 このとき、新たに村松藩の所属となった五泉組・論瀬組・横田組・川内組に対して通達された「さだめ」を書き写した資料が、旧吉沢村小出家所蔵の「村松領定書(請求記号E1703-196)」であると推測されます。資料には、村松藩に納める税の金額や支配替えによって管轄が変更された檀那寺などが記載されています。また、村松藩の「定」だけではなく、9月に太政官から出された「平民苗字許可令」の記載も見られます。江戸時代には一般庶民が名乗ることができなかった苗字を名乗ってもよいと村々に通達されていることから、時代の移り変わりによる制度の変化を読み取ることができます。

 このように、新たに村松藩となった吉沢村でしたが、明治4年(1871)7月には廃藩置県によって全国すべての藩が解体されます。村松藩も他藩と同様に解体され、村松県を経て11月には新たに新潟県となりました。1年余りで村松領定書が意味をなさなくなることから、明治への移行期がいかに激動の時代であったかということが伝わってきます。

(注1)菊間藩(沼津藩)…慶応4年(1868)、沼津藩(現静岡県)水野ただのりの所領5万石の内、駿河国内2万3700石余が上知となり、その代わりとして上総国市原郡内(現千葉県市原市)において2万3700石余が与えられることにより成立。

「村松領定書」の画像1

「村松領定書」の画像2
【村松領定書】(請求記号E1703-196)