シャム(今のタイ)との交易を通して琉球国に蒸留酒が伝播(でんぱ)されたという決定的証拠を示す書物は『陳侃(ちんかん)使録』である。1534(天文3)年、明国の冊封使(冊封のために中国皇帝の任命書を持って近隣の国に行く使者)であった陳侃は、琉球に赴いた後に本国に報告書を書いて送っていた。その書物が『陳侃使録』で、そこには「琉球国には南蛮酒と称し、清烈にして芳、佳味なる酒を醸す、云う所に依れば、その造法は緑深き南蛮甕と共に暹羅より渡来せり」と記されている。暹羅とはシャムのこと、また当時の緑色の壺は、バンコクの国立博物館に今もあり、それが琉球に現存しているものと同一のものであるので、交易によってシャムから伝来してきたことは間違いないだろう。

 さらにこの『陳侃使録』には、次のような記述も見える。「王奉酒勧、清而烈、来自暹羅者、其南蛮酒、則出自暹羅者、醸者中国之露酒」。この文中の「清而烈」や「露酒(シャンルウ)」とあるのは、間違いなく蒸留酒と解してよろしい。というのは、中国で蒸留酒の異名は「酒露」であり、その語源は「甑ヲ以テ蒸シ、其の滴露ヲ酒トス」である。「清而烈」は、よく中国の焼酎である白酒(パイチュウ)を褒める言葉として登場してくる。前回のコラムで取り上げた『成宗実録』にも「南蛮国酒、味如焼酎、基猛烈、飲数鐘、則大酒」とある。とにかく、その他の交易に関する古文書などからも総括すると、中世期の泡盛や焼酎の前身ともいうべき南蛮酒がシャムから琉球に渡来し、それが本邦への焼酎の足掛かりになったと解して間違いないであろう。その後も琉球は南海諸邦との貿易で活況を呈していたが、酒はシャム渡来の南蛮酒のみであった。そして、『陳侃使録』には「その造法は暹羅より渡来した」とあるから、すでにその時点で琉球では南蛮酒を醸し蒸留して酒を得ていたのは確かである。

 しかし、まだ「泡盛」とはいわず、「南蛮酒」であった。その「南蛮酒」が「琉球酒」としてわが国の公式記録に登場するのは『徳川実紀・駿河紀』の1612(慶長17)年の条で、その年も押しつまった12月26日「此日駿府に島津陸奧守家久琉球酒二壺献じ…」とある。しかし、「泡盛」という名での登場は、その後もしばらくない。琉球王から徳川将軍に酒が献上されたのは1612年が最初で、以後、酒名は14年が琉球酒、34年が焼酎、44年も焼酎、49年は焼酒、53年も焼酒、そしてついに71(寛文11)年に「泡盛」として献上され、以後は「泡盛」で通している。

 以上のように、琉球では南蛮酒の技術が導入された1530年代から約100年以上もの間、琉球固有の「泡盛」という酒名は持たず、南蛮酒と称されていたようである。将軍への献上酒の名に途中、焼酎とか焼酒といった名前が登場するのは、徳川期を通じて琉球王からの献上品は全て薩摩藩を通して行われ、献上品の表文などもほとんど薩摩藩の祐筆の手で起草されていたためである。

 琉球王がこの『徳川実紀』に見えるように徳川将軍家に酒を含む献上品を貢がねばならなかったのには、薩摩藩の圧迫があった。その歴史的背景をさらに詳しく見てみると、琉球の蒸留酒が薩摩に伝播していった経緯というものが見えてくるが、そのことについては次回のお楽しみ。