明治元年、幻の大阪遷都論 大久保利通に前島密が反論
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元号が明治に変わった1868年。新時代の首都を大阪(当時は大坂)にするのか、江戸にするのかという論争があった。その中で目を引いたのが、新政府参与だった大久保利通が建白した大阪遷都論と、後に"郵便制度の父"と呼ばれる前島密が唱えた江戸遷都論だ。2人の遷都論には、現代にも通じる二大都市のあり方のヒントがある。
京街道の宿駅として栄えてきた大阪府守口市。その街道沿いに風情のある御堂や釣り鐘堂を配した江戸初期創建の寺院がある。東本願寺の末寺、盛泉寺(じょうせんじ)だ。「150年ほど前、守口は1日だけ日本の首都だったのです」と話すのは御坊の本多肇さん。明治元年(1868年)に行われた大阪行幸で、明治天皇は守口に1泊する。その時、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)として神鏡をまつる内侍所(ないしどころ)が盛泉寺に置かれた。実はこの内侍所を伴った行幸には、遷都への強い思いが込められていた。
■京都の因習絶つ
大阪行幸が行われたのは同年3~4月の40日余り。総勢約1700人を伴って京都を出発。守口などを経て大阪に入り、本願寺津村別院(北御堂)を行在所(あんざいしょ)とした。明治天皇は天保山などに足を延ばし、日本初の観艦式も行ったという。
行幸のきっかけをつくったのが大久保利通の大阪遷都論だ。慶応3年(1867年)12月に王政復古を実現した新政府は翌年1月の鳥羽・伏見の戦いで幕府に勝利。天皇親政の実現が政治課題となった。それには京都の因習を絶つ政務の一新が欠かせない。同月、大久保は総裁の有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王に大阪遷都を建白。公式の建白書には「外国交際ノ道、富国強兵ノ術(中略)等ノコトニ於(おい)テ地形適当」と書かれていた。
だが、建白書を薩長の横暴ととらえた公家や諸侯が猛反発。大久保らが次善の策として打ち出したのが行幸だった。守口文庫で行幸関連文書を研究する菊田芳理事長は「大久保は建白書が否定されても大阪遷都の意思を変えなかった。だからこそ"三種の神器"を伴わせ、そのまま遷都になる可能性も示した」という。
■無血開城が転機
行幸が始まった3月は新政府軍による江戸城総攻撃があるかないかのタイミング。もし江戸が焼け野原になったら遷都につながる可能性はゼロではない。ところが、新政府の西郷隆盛と幕府の勝海舟の会談で総攻撃は中止となり、4月に江戸無血開城が実現する。八百八町はそのまま残った。
同月、こうした状況を見て大久保宛てに江戸遷都論を書き送ったのが、当時薩摩藩洋学校の講師を経て幕臣となった前島密だ。前島は大阪のマイナス面を書き連ねることで大阪遷都に反対する。「道路が狭い」「港湾は大型船に向かない」「開拓が必要な蝦夷地から遠い」といった具合だ。
この江戸遷都論は大久保に少なからず影響を与え、江戸無血開城後は大久保も江戸遷都に傾いた。霊山歴史館の木村幸比古副館長は「徳川慶喜を説得しやすくなるうえ、ロシアの南下や反維新の東北列藩に対応する意味もあった」と指摘する。同年7月に江戸を東京と改称する詔書を発し、10月に明治天皇が東京に初行幸。翌年改めて行幸し、実質的に東京が首都になる。
かくして首都になれなかった大阪だが、最近は副首都論議が盛んだ。大阪府・市は2016年に共同で副首都推進局を発足し、今年5月には副首都ビジョン修正版をまとめた。大阪の役割として「西日本の首都」「首都機能バックアップ」「民都」「アジアの主要都市」の4点を挙げている。
大阪の欠点をあげつらった前島の江戸遷都論にも実は大阪を評価する内容が少しだけ出てくる。「幕府のない江戸は都でなければ廃れるが、大阪は都でなくても廃れない」――。自由な商業都市として発展してきた大阪には、首都や副首都といった格は必要ないのかもしれない。
(浜部貴司)
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