春秋
向田邦子さんは悪筆、乱筆で有名だった。放送作家として活躍していたころ、締め切り間際に書きなぐった原稿を誰も判読できない。刷り上がった台本は「手紙」が「牛乳」に、「嫉妬」が「猿股」に化けていた――と一緒に仕事をした森繁久弥さんが振り返っている。
▼そこまで崩れていなくとも、肉筆の文字というのは百人百様である。小学校で「とめ」「はね」「はらい」など教え込まれたはずだが、自己流で書き習わしているうちに同じ漢字がさまざまに形を変えて世にはばかる。それも手書きの味だが、昨今はパソコン普及のあおりで印刷字体との違いがしばしば問題になるという。
▼たとえば「令」の最後の2画を、みなさんはどう書かれよう。昔から「マ」とする人が少なくないのだが、銀行などでは最近、印刷文字と同じ形を求めるケースがあるそうだ。混乱をきたさぬようにと、文化審議会は常用漢字の細かな違いを認める指針を作るという。そんなことまでお上が……決めねばならぬ時世らしい。
▼向田さんは切羽詰まると「四」の字など横棒4本で済ましたというから恐れ入る。それでも往年の放送局には、こういう原稿を読み解きガリ版を切る職人がいたという。そういえばかつての新聞社も似たようなものだった。キーボードを押せば活字が現れる利便に浴しつつ、手書きがあふれていた時代を懐かしんでもいる。