猪木さんは55歳だった1998年4月、東京ドーム大会のドン・フライ戦を最後に現役を引退した。しかし、引退試合はあくまで儀式にすぎなかった。実はプロレスラーとしては、その10年前に燃え尽きていた。88年8月8日、横浜文化体育館で行われた、愛弟子藤波辰爾とのIWGPヘビー級タイトルマッチ。猪木はこの試合をプロレス人生の区切りと位置付けている。当時45歳だった。

当時から実は重い糖尿病を患っていた。猪木さんは「もう体がぼろぼろでね。医者からも“現役は無理”と宣告されていた。40歳くらいから、いつも引退を考えていた」と06年夏の取材で明かしている。

39歳の誕生日の2カ月後、完全無欠の肉体が悲鳴を上げた。82年4月、左ひざ半月板損傷の重傷を負う。その4カ月後の同8月には糖尿病と診断された。検査の結果、血糖値が通常の5倍もあった。このころから、体がだるく、思うように動けなくなったという。

肉体の衰えとともに猪木の最強神話も崩壊へと向かった。87年6月には長州力、藤波、前田らが新世代軍を結成。猪木の首を狙って世代交代対決を声高に要求してきた。もともと猪木自身が「強い者が勝つ」という実力主義を提唱して旗揚げした団体。思うように動かない体がもどかしかった。「年々体力が落ちて、練習もきつくなっていた。マスコミに限界とか書かれたりもした。水風呂に入ったり、食事療法とか、何とか自分でコントロールしながら現役を続けていた」。

88年、45歳を迎えた猪木が「限界」を悟る、ある出来事が起きた。同4月、沖縄キャンプ中に、左足甲を骨折した。ケガには強い自信があったが、リング上ではなく、陸上トレーニング中にケガをしたことがショックだった。この負傷でIWGP王座返上の事態に見舞われた。同8月8日、当時IWGP王者だった藤波への挑戦が決まると、猪木は「負けたら引退」を宣言してリングに上がった。

試合は両者の意地がぶつかり合った。互いの得意技の応酬が続いた。60分が経過しても決着はつかず時間切れ引き分け。試合後は「もう思い残すことはない」と引退を示唆。翌日の会見では新日本社長の辞任を明言した。しかし、当時の猪木人気はまだまだ絶大。猪木不在は地方興行の集客にも影響する。新日本はもちろん、放送権を持つテレビ朝日も、団体の顔をすんなり引退させるわけにはいかなかった。必死の引き留めが始まった。その後、引退騒動はとりあえず棚上げになった。

「現役を辞めようと思ったが、そうできない状況になっていた。いろいろな人の思惑もあった」。1度薄れたリングへの熱意が戻ることはなかった。89年、猪木さんはスポーツ平和党を設立し、参議院選挙に立候補。軸足をプロレスから政治に移した。【田口潤】