ロッテの重光武雄オーナーが19日、老衰のために韓国・ソウル市内の病院で死去した。98歳だった。 韓国出身の同氏は、1948年(昭23)にロッテを創業。ガム、チョコレート、アイスクリームなどの販売で成功を収めた。69年に岸信介元首相の仲介で球界進出し、ロッテオリオンズ、現在の千葉ロッテマリーンズのオーナーを務めた。2015年にロッテホールディングスの名誉会長に就任。グループの不正経営をめぐり、19年には自身の実刑判決も確定した(健康上の理由で収監はされず)。18日に体調が急激に悪化。最期は家族がみとったという。葬儀は韓国で行われ、ロッテグループが後日「お別れの会」を行う予定。

   ◇   ◇   ◇

表には出なくても球団のことはいつも気にかけていた。筆者が知る90年代以降の重光オーナーは、12球団オーナー会議を含めプロ野球公式行事に出席せず、球場を訪れることもなかった。

そんな姿勢を疑問視する声が球界の内外から挙がったこともある。だが、この姿勢は大企業トップの哲学の表れのようだった。「昭夫くん(オーナー代行)に任せているので」と話したものだった。こちらの質問をかわす言い訳の面もあったかもしれないが、次男に「くん」付けしたところにシビアさと、任せた以上は余計な口出しをしないとの意図を感じたものだ。一方で「監督は私が決めます」とはっきりと線をひいていた。そういえば、お菓子の新商品発売の過程で、最後に試食してゴーサインを出すかどうか決めるのは重光社長、という話を聞いたことがある。

取材陣にとって重光オーナーと直接話ができる取材場所は、深夜の都内の自宅前だった。夜10時過ぎ、自分の運転で帰宅すると、車を置いてから2回に1度ほどの割合で記者の待つ門の外へ戻ってきたものだった。こちらは取材が目的だが「担当記者としてはどう思いますか?」「どうすべきだと考えますか」と逆取材されることも少なくなかった。

チームのことは球団内から詳しく報告が挙がっているはず。それでも第三者ともいえる担当記者の声を聞くことで、最後のジャッジに備えていたのだろう。

公の場での接点はゼロに近いが、それでいて距離が近いと感じさせてくれる珍しい球団オーナーだった。【94~96年ロッテ担当=森田久志】