1975年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

監督:金田正一

成績:前期6位(27勝34敗4分)
後期2位(32勝31敗2分)

04.21 金田監督が心臓発作で1週間の休養に入り、高木コーチが代理監督を務める。
06.27 韓国にノンプロ「ロッテ・ジャイアンツ」が誕生。今後の協力関係推進へ向けて球団提携を結ぶ。
10.23 韓国ノンプロチームとの交流試合のために訪韓する。
タイトル 最優秀防御率:村田兆治

永年オリオンズを支えた助っ人アルトマンの後釜と目された新外国人の不振、投手陣の不調もあり、思わぬ苦戦のシーズンとなりました。原因として過酷な移動も問題視されました。

1976年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

監督:金田正一

成績:前期3位(29勝28敗8分)
後期3位(34勝28敗3分)

04.17 得津高宏がサイクルヒットを達成する。〈対太平洋戦〉
05.05 ラフィーバーが選手交代をめぐって監督と口論したため、無期限の自宅謹慎処分と1万ドルの罰金を科せられる。
08.11 有藤道世がプロ入り以来8年連続20本塁打を打って、プロ野球新記録となる。〈対近鉄5回戦〉
タイトル 最優秀防御率:村田兆治

前期、後期ともに優勝争いを演じたものの、打線の迫力不足などから、優勝に手が届きませんでした。

1977年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

監督:金田正一

成績:前期5位(27勝33敗5分)
後期1位(33勝24敗8分)

01.23 「オリオンズこどもの会」を「ロッテ・バブルボーイズ」と改め、後援会組織を全国規模に拡大する。
10.04 実行委員会においてロッテ球団の保護地域変更を議決し、地域権を神奈川県に移すことを認める。これによって東京と宮城に置ける暫定的な地域権は消滅する。
10.05 阪急対近鉄戦で阪急が敗れたため、後期優勝が決定。
10.15 2勝2敗で迎えた阪急とのプレイオフ最終戦で敗れる。
10.21 オーナー会議で、ロッテ球団の保護地域を神奈川県に移すことが承認される。
11.24 本拠地を川崎球場に移すことが決まり、川崎市内をパレード。
タイトル 首位打者:有藤道世、本塁打王:L.リー、打点王:L.リー

のちに長く助っ人として活躍するレロン・リーが入団、本塁打王と打点王の2冠を獲得、打線に核ができミスターロッテ有藤も首位打者を獲得するなどの活躍で久しぶりのプレーオフ進出もあと1勝で阪急に破れ日本シリーズ進出はなりませんでした。

1978年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

監督:金田正一

成績:前期5位(25勝33敗7分)
後期3位(28勝29敗8分)

06.31 阪急の今井雄太郎から、球団史上初の完全試合を喫する。〈対阪急8回戦、県営宮城〉
09.30 球団通算2000勝を達成する。〈対クラウン12回戦〉金田監督が辞任する。

川崎球場を本拠地としスタートし、野村克也も加入。優勝候補NO1と呼ばれながらも低迷。金田監督も辞任し、寂しいシーズンとなりました。一方、レロン・リーの弟レオン・リーが入団、破壊力抜群のリー兄弟としての活躍が開始されました。

1979年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

監督:山内一弘

成績:前期4位(26勝34敗5分)
後期3位(29勝29敗7分)

06.09 八木沢荘六がマニエルに死球を与え、負傷したマニエルは約2ヶ月間欠場する。〈対近鉄10回戦〉
08.12 レオンと有藤道世がプロ野球史上初の同一チーム・同ゲームで2人の3本塁打を記録する。〈対近鉄4回戦、日生〉

かつての4番打者、山内一弘を監督として迎え、投手力に課題が残ったものの、着実な復活を予感させたシーズンでした。

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