会員限定記事会員限定記事

【追悼】歌舞伎の未来見詰め続けた「鬼平」 人間国宝・中村吉右衛門さん

2021年12月11日12時00分

 歌舞伎界を代表する立役(たちやく=男役)の一人として、時代物から世話物まで多くの当たり役で観客を魅了した中村吉右衛門さんが11月28日、77歳で死去した。3月28日に心臓発作で倒れて救急搬送されてから8カ月。舞台に復帰する日を待ち続けたファンの願いはかなわなかったが、吉右衛門さんが生涯を懸けて守り伝えた先人の芸と心は、その薫陶を受けた次世代の担い手たちが未来につないでいく。(時事通信編集委員 中村正子)

現代人に響くドラマ

 進取の気風に富んだ昭和の名優、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)の次男として生まれた吉右衛門さんは、父譲りの風格のある舞台姿に悲劇を背負ったスケールの大きな人物がよく似合った。源平合戦を背景にした『熊谷陣屋』の熊谷直実は、母方の祖父で、後に養父となった初代中村吉右衛門(1886~1954年)から実父、そして吉右衛門さんへと受け継がれた屈指の当たり役。主君である源義経の意を酌んで、わが子を平敦盛の身代わりにする武将を演じて子を失った父の悲しみ、戦の世の無常を浮かび上がらせた。

『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、『俊寛』の俊寛僧都、『極付幡随長兵衛』の幡随院長兵衛なども人物の内面を深く掘り下げ、現代の観客の心に響くドラマとして提示。由良之助にはあだ討ちを目指すリーダーとしての大きさがあり、俊寛は流刑先に一人残る決意の先の静かな諦観が目に残る。由良之助も俊寛も、この1年ほどの間に見たばかりで、亡くなったことがいまだに信じられない。

 重厚な役どころだけでなく、『河内山』の河内山宗俊や、『沼津』の呉服屋十兵衛などで華やかに発散する色気と愛嬌(あいきょう)も魅力的だった。演じている吉右衛門さんのコミカルな一面は、取材の場で接することができた名優の素顔に近いのではないかと思うほどだった。

「鬼平」は歌舞伎でも

 吉右衛門さんを初めて取材したのは2004年12月。底冷えのする京都・太秦の京都映画撮影所(現・松竹京都撮影所)で『鬼平犯科帳』の2時間ドラマスペシャル「山吹屋お勝」の収録が行われていた。うわさには気難しい人だと聞いていたから、少し緊張しながら取材会に臨んだが杞憂(きゆう)だった。01年に第9シリーズが終了してから約4年ぶりに復活するとあって、1989年以来演じてきた「鬼平」こと長谷川平蔵への思い、作品の魅力を冗舌に語った。「型にはまった勧善懲悪のスタイルではなく、駄目なところも女に弱いところもある人間的な人物」と評した鬼平像は、吉右衛門さんその人のように感じられた。

 07年4月に演劇担当になって間もなく、他社の先輩記者と2人で建て替え前の歌舞伎座の楽屋を訪ねたことがあった。翌月、東京・新橋演舞場で吉右衛門さんを座頭に行われる歌舞伎公演の前触れを兼ねた取材で、出し物の一つが歌舞伎仕立ての『鬼平犯科帳』だった。池波正太郎の原作の中でも屈指の人気作とされる「大川の隠居」。立ち回りや捕物シーンがなく、職人かたぎの盗賊との駆け引きを描いた人情話の魅力や歌舞伎として演じる難しさを語った。

 当時の取材メモを見ると、舞台に対する姿勢を後進にどう伝えていくかや、新作歌舞伎のアイデアなどについても話している。新作の題材として温めていたものの一つが桃山時代の絵師、長谷川等伯だ。絵を描くことが趣味だった吉右衛門さんは、才能を見込んだ長男を失った等伯を跡継ぎがいない自身に重ね、狩野派との闘いと家族のドラマを芝居にして、「有名な『松林図屏風』を舞台の上で描けたら」と熱弁を振るった。『オペラ座の怪人』をヒントにした新作も構想していた。大坂夏の陣で徳川家康の孫、千姫を大坂城から救い出した津和野藩主、坂崎出羽守の物語。「『オペラ座の怪人』を清元にしてもらって、出羽守と千姫の話にできるかなとか。今どきの奇抜なものは考え付きませんけど、オーソドックスなものならしょっちゅう考えていますよ。脳の活性化になりますし」と語っていた。三味線の音色でつづる千姫への出羽守のかなわぬ恋―そのお芝居、ぜひ見てみたかった。

 その後、担当を離れるまでたびたび取材した。中でも、06年から東京・歌舞伎座の9月興行として始まった「秀山祭」は、「秀山」を俳名とした初代中村吉右衛門(屋号=播磨屋)の芸をしのび、継承する場として吉右衛門さんが特に力を入れており、開幕に向けて歌舞伎担当記者と懇談するのが常だった。跡継ぎとなる男児がいなかった初代の養子になり、その芸を守り伝える運命を生まれる前から背負わされていた吉右衛門さん。おいの松本幸四郎さん、四女の夫となった尾上菊之助さんをはじめ、次代の歌舞伎を担う世代への芸の継承に情熱を注いだ。

80歳で『勧進帳』の弁慶が夢

 吉右衛門さんは播磨屋の芸だけでなく、高麗屋(松本幸四郎家の屋号)の芸の継承にも努めた。『勧進帳』の弁慶もその一つ。父方の祖父である七代目松本幸四郎(1870~1949年)は、全国各地で弁慶を1600回以上演じて『勧進帳』を人気演目にした「弁慶役者」だった。

「80歳で『勧進帳』の弁慶を演じたい」と常々語っていたのは、高麗屋の当たり芸への思いの表れでもあったのだろう。14年に最後に弁慶を勤めた時、「初代吉右衛門をずっと追ってきたけれど、父方の祖父の血も流れているので。やっぱり、白鸚の父の(弁慶)を見ていると、格好いいですよね」と語っている。役者としての目標であり、憧れでもあった。「序幕から最後までずっと大きな声を出して動く役は他にない。弁慶をクリアできるかできないかは(役者の)バロメーターですね。他のお芝居はやった後は疲れの上にドーッと来るものがありますが、弁慶の場合は花道を引っ込んだ後、スポーツをした後のようにスカッとする。あれは不思議だなと思います」

普及活動にも情熱

 芸の継承と後進の指導に加えて情熱を注いだのが、未来の観客を育てるための普及活動だ。06年から12年にかけ、文化庁の「本物の舞台芸術体験事業」の一環として、若手俳優や長唄、小鼓など鳴り物の演奏者らを率いて全国の小学校を回り、子どもたちに歌舞伎の面白さを伝えた。会場は体育館。お芝居で役者が演じるイノシシや馬などの動物、雨や波の音などの効果音を作る道具などに初めて触れた子どもたちと、その様子を見守る吉右衛門さんの目の輝きが忘れられない。

「歌舞伎の芸を継承していくには、役者が高みを目指すだけでなく、お客さんの審美眼も育てないといけない。これをきっかけに邦楽や歌舞伎俳優を志す人も出るかもしれない。20年後、30年後に成果が出る活動だと思うが、今後もライフワークとして続けたい」と期待を込めて取り組んだ。

 訃報が流れた翌日、囲み取材に応じた菊之助さんは「岳父ももっと舞台に立ちたかったでしょうし、もっともっと教えを請いたかった」と涙ながらに語った。「岳父のこと、中村吉右衛門のこと、忘れないでください」。菊之助さんの切なる願いは、今は大人になった子どもたちにも届いただろうか。

(2021年12月11日掲載)

話題のニュース

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ