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白虎隊、死の行軍をたどる 戊辰戦争150年

戦争

 自分がいつ、どう死ぬのか想像したことがあるだろうか。病気や事故、災害だけではない。殺される事態もないとはいえない。死が誰にでもいつか必ずやってくると知っていても、たいていの人は自分がどう死ぬのか分からないまま人生を送っている。

 今から150年前、会津藩(福島県)の組織した「白虎隊」という名の軍隊に所属する15~17歳の少年たちは、霧雨が降る山の中で、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自ら首に刃物を突き刺して死んでいった。

 なぜ、彼らはこうなってしまったのか。社会背景を調べ、彼らが行軍した実際の道筋をたどった。(福島支局 菓子翔太)

 白虎隊が自決する15年前の1853(嘉永6)年。当時は江戸幕府が日本を支配し、傘下の藩が各地を治めていた。この年に、アメリカの艦隊(黒船)が浦賀沖(神奈川県横須賀市)に来港する。それをきっかけに、海外との接触を制限する鎖国をしてきた日本が外交の門を開くと、今後の日本のあり方をめぐって国内で争いが激しくなった。

 天皇が住む京都には、テロなどを画策する長州藩(山口県)の藩士をはじめとする過激派が集まった。これらを取り締まるため、幕府の命令で、会津藩は京都の治安維持に当たる「京都守護職」を務める。その働きぶりは、当時の孝明天皇からも評価され、厚い信頼を得ていたという(孝明天皇は1867年1月=慶応2年12月=に崩御。後に明治天皇が即位する)。

 ところが、1866年3月(慶応2年1月)、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩がともに「幕府を倒そう」と手を結んだことから、幕府打倒派(いわゆる「倒幕派」)の勢力が拡大。倒幕に向けて計画が進む中、幕府の第15代将軍徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)、先手を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った。

 これにより、幕府を倒すという名義を失ったかに見えた薩摩や長州などによる新政府は、天皇中心の政治に戻す「王政復古の大号令」を発令。さらに、これまで政権の中心にいた徳川家を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決めた。

 当然、会津藩などの旧幕府側は反発した。その上、新政府軍の西郷隆盛が浪士を集めて江戸で行ったゲリラ活動に我慢できず、旧幕府は江戸の薩摩藩邸に報復攻撃した。結果、日本の運命を変える「戊辰戦争」が始まってしまう。初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」は衝撃的な展開を迎えた。

 このとき、1868(慶応4)年1月。白虎隊が自刃するまで残り7カ月のことだった。

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