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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第82回)

官庁エコノミストは復活するか

 

2020/07/17

 私の著書「平成の経済」(日本経済新聞出版社、2019年)が、第21回読売・吉野作造賞を受けることになり、7月13日その贈賞式が行われた。大変な名誉であり、一生の誇りだ。私は、1969年に大学を卒業して経済企画庁に入って以来、約半世紀にわたって日本経済を観察し続けてきた。この本は、そうした私のエコノミスト人生の集大成のような本である。その意味で今回の受賞は、私のエコノミスト人生そのものを評価していただいた気がしてとても嬉しい。これまでの私の研究生活を支えていただいた関係者に感謝したい。

 さて今回の受賞の過程で私が再認識したことは、自分が「官庁エコノミストの代表選手」または「最後の官庁エコノミスト」だと受け止められており、かつ多くの人が私の後に続く官庁エコノミストが現われないことを憂えているということだった。

 私は、2002年に役所を退いてから随分年月が経過しているので、自分が「官庁エコノミストである」という意識がほとんど消えていた。しかし、今回の受賞で、多くの人が私を官庁エコノミストとして認識していることが分かり、私自身を見直すことになった。

 中央公論7月号に、選考委員の方々の選評が掲載されている。この中で、例えば、北岡伸一氏は「官庁エコノミストの良き伝統を現代に引き継いだすぐれた著作」と評しているし、吉川洋氏は「本書は、日本を代表する官庁エコノミストが平成の日本経済を総括した本である」、老川祥一氏は「官庁エコノミストらしく分析は公平、客観的で、また政府の誤りも率直に認めるなど、好感が持てる作品だ」、松田陽三氏は「官庁エコノミストとして『経済白書』も執筆した著者が、‥時代を振り返り、わかりやすく簡潔明瞭にまとめている」と書いている。

 改めて考えてみると、確かに、私自身のエコノミストとしての生き方には長い官庁エコノミストとしての経験が浸透している。その私が執筆した「平成の経済」にも、そうした経験や生き方が反映されている。そして、選考委員の方々の選評を読むと、それが今回高い評価を受けた一つの大きな理由だったようだ。これを機会に官庁エコノミストについての私の考えの一端を紹介しよう。

宮崎さんと香西さんのこと

 官庁エコノミストというのは、政府内にあって公務員としての身分で、経済を分析したり、政策を立案したりする人たちのことだが、官僚として採用される時に「エコノミスト」という枠があるわけではない。公務員試験は「法律職」「経済職」等の区分があり、経済企画庁の場合は、経済学部を卒業し、経済職で採用された人が配属される場合が多いが、法律職や数学職で採用された人がエコノミストとして活躍する場合もある。官庁エコノミストの枠を超えて活躍した大来佐武郎氏は工学部電気工学科の出身だし、金森久雄氏は法学部出身だ。

 要するに、1~2年ごとのジョブローテーションでいろいろな仕事を経験するうちに、向き、不向きが次第に分かってきて、経済の調査分析に特化した人が現われるということである。経済企画庁は、経済白書など経済分析の分野でエコノミスト的な能力を発揮できる場がたくさんあったから、自ずから数多くの官庁エコノミストを輩出することになった。私は、こうした先輩たちの背中を見ながら、官庁エコノミストの道を歩んできたのである。

 そうした中で、特に2人の先輩が、今回の「平成の経済」受賞への道を拓いてくれたように思われる。一人は宮崎勇さんだ。宮崎さんは、私が1969年に経済企画庁に入った時の最初の課長(内国調査課長)である。宮崎さんは官庁エコノミストとして大活躍し、その後、民間人の閣僚として経済企画庁長官を務めている。宮崎さんは、現役官僚時代の1975年に「人間の顔をした経済政策」(中央公論社)で吉野作造賞(私が今回受賞した読売・吉野作造賞の前身)を受けている。私は、官僚という立場を貫きながらも、対外的にも優れた業績を残しつつある大先輩を誇らしく仰ぎ見ていたものだ。

 もう一人は香西泰さんだ。香西さんについては、このコラムで何度も取り上げているので詳しくは述べないが、香西さんには「高度成長の時代」(日本評論社)という洛陽の紙価を高めた名著がある。この本は1981年に日経・経済図書文化賞を受けている。これは、香西さんがエコノミストとして併走し、観察してきた日本経済の同時代史である。香西さんの背中を見ながら、私もいつかこんな同時代史を書いてみたいと夢見たものだ。その私の想いが実を結んだのが今回の「平成の経済」である。香西さんの「高度成長の時代」がなければ、私の「平成の経済」はなかっただろう。

 今回、香西さんの「高度成長の時代」をお手本にした、私にとっての同時代史「平成の経済」を上梓し、それがかつて宮崎さんが受けたことのある読売・吉野作造賞を受けることになったわけだ。官庁エコノミストの三代にわたる不思議な結びつきを感じる。

官庁エコノミストの特徴

 ではその官庁エコノミストなるものは、学界の経済学者、民間エコノミストと何か異なった特徴があるのだろうか。この点を今回の受賞を機に考えてみたのだが、私自身のケースを思い浮かべてみると、次のような特徴がありそうだ。

 第1は、「需要主導型」だということだ。学界でキャリアを積んできた経済学者の場合は、専門的に研究を積み重ねてきた分野が存在するから、その分野についての発言が多くなる。いわば「供給主導型」である。ところが、官庁エコノミストの場合は、日本経済に問題が現われたら「専門外です」と言って済ましているわけには行かないから、とにかく資料を集め、何らかの分析を加え、求められれば何らかの政策的対応のアイディアを出す必要がある。

 私の場合で言えば、経済白書の作成がある。毎年夏には白書を出さなければならないが、多くの人が関心を抱いている問題が現われれば、これを取り上げないわけには行かない。

 第2は、政府内の仕事をこなす一方で、並行して対外的発言を行っていることだ。政府内で経済分野の職務に従事している人は多いが、対外的な発信がないと、外部の人に官庁エコノミストとして認識されない。私の場合はやや極端だが、役所に入って10年くらいたつと、外部からの原稿依頼、執筆依頼が多くなり、2年に1冊くらいの割合で本も書くようになった。こうなってくると常に何らかの原稿の締め切りがあるという状態になり、いやでも経済の現状と課題について何らかの答えを出すようプレッシャーがかかりつづけることになる。

 「平成の経済」の場合で言えば、バブルの崩壊、不良債権、デフレ、金融危機、リーマンショック、アベノミクスなど、平成時代に次々に現われてきた諸課題は、いずれも私がその時点で、何らかの見解を求められ続けてきた問題ばかりである。だからこそ「平成の経済」は私のエコノミスト人生の集大成なのだ。

 第3に、政策をどう評価するかという点も特徴的だ。

官庁エコノミストの政策評価

 経済を取り上げれば、必ず「ではどうしたらいいのか」「政府の取組をどう評価するか」を述べる必要がある。これも改めて考えてみると、官庁エコノミストの政策評価には次のような2面性がある。

 一つは「政策批判を批判的に見る」という視点だ。政府がやることというものは常に批判にさらされるものだ。したがって官僚を勤めていると、常に批判を意識せざるを得ない。だから私の場合は、どうしても「批判を受ける側の眼」で政策を評価する癖がついている。

 例えば、「働き方を変えるよう積極的に取り組むべきだ」と言われると「もっと具体的に、どこをどう変えるか議論しないと現実的な政策にはならない」、「不良債権処理にもっと大々的に資金を投入すべきだ」と言われると「それは今だから言える後知恵で、金融危機の前は、金融機関の救済のために安易に税金を投入すべきではないと言っていたではないか」などと「批判の批判」をしたくなる。

 もう一つは、政府にいるからこそ経済政策の問題点が分かるという視点だ。官僚として経済政策の決定プロセスを見ていると、重要なデータを隠そうとしたり、政治的な圧力がかかったり、大臣の暴走を抑えられなかったりといったことを目撃することになる。私も、政府の外からは窺い知れないような問題を目にしてきた。

 ただし、官庁エコノミストは、こうした内部で知り得た政策的問題点を外部に発信することは出来ない。官庁エコノミストも役人として行政組織の一員なのだから、組織の意志に反することを公に発言することは出来ないのだ。

 この点で私にとって幸運だったのは、私が2003年に役人を辞めて自由な立場になったことだ。つまり私は、平成時代の前半で政府の中で感じてきたことを、そのまま自分の考え方として正直に発言できるようになったのである。

 今回の受賞に際してはこの点も評価されたようだ。選考委員の方々の選評を見ると「率直でフェアな記述のスタンスにも好感が持てる」(猪木武徳氏)、「著者は経済企画庁の幹部として政策決定上、枢要の位置になった人だが、だからと言って政府に点が甘いわけではない」(吉川洋氏)、「政府の誤りも率直に認めるなど、好感が持てる作品だ」(老川祥一氏)、「政策決定の傍らにいた人物としての率直な反省や、今だから言える政治批判、マスコミ論調への苦言も記され、興味深い」(松田陽三氏)といった指摘が出ている。これは、普通は組織内の人間が組織の批判をすることはないのだが、この本ではそれが行われているということが目立ったからではないかと思う。

官庁エコノミストの衰退

 さて近年では、私のような官庁エコノミストはあまり見られないようになった。この点については、「平成の経済」の中でも書いている。それは、経済企画庁が内閣府に吸収される中で、いくつかの機能が失われたことを指摘した部分であり、具体的には次のようになっている。

「第3は、いわゆる官庁エコノミストの再生産がストップしたことだ。企画庁時代には、2018年にあいついで亡くなった香西泰氏、金森久雄氏らをはじめとして多くのエコノミストが活躍し、その背中を見て次の世代のエコノミストが育っていった。内閣府に統合されてからは、官庁エコノミストの活動は目立たなくなった。(中略)エコノミストとしての高い力量を持った人材が政府内に存在することの重要性は否定しがたく、それが育たなくなっているのは残念なことだ。」(129ページ)

 実はこの部分は、私としては抑制気味に書いている。経済企画庁が担っていた諸機能が失われたのを惜しむのは、自分が企画庁で育ったからであり、その部分を詳しく述べていくのは、個人的な好みに偏しているのではないかと考えたからである。

 しかし、今回の贈賞式の前後に、各方面の方々と話す中で、かなり多くの方々が「官庁エコノミストの再生産がストップしたのは残念なことだ」「経済企画庁が担ってきたような機能を担う役所が必要だ」という意見を持っていることを知り、大変心強く感じた。

 ではなぜ内閣府に統合されてからは官庁エコノミストが目立たなくなったのか。この点も「平成の経済」で簡単に触れているのだが、ここでやや詳しめに解説しておこう。

 第1に、外に向かって発言することについてのハードルが高くなったのかもしれない。私が在席していた頃の経済企画庁では、外部に向かって何を書いても、何を発言しても自由だったし、それによって報酬を受けても何も言われなかった。むしろ、企画庁の中では「外で認められて一人前」という雰囲気さえあった。これは経済企画庁が異例に自由な環境だったようだ。

 私は、企画庁で市場開放問題を担当するセクションにいた時に、「経済摩擦」(日本経済新聞社、1986年)という本を書いたことがある。ところが、本が出ないうちに公正取引委員会の事務局に出向になってしまったので、公正取引委員会の一員として出版することになった。すると、「本を出すのであれば、原稿を添えて決済を取るように」と言われた。「内容は公正取引委員会の業務とは無関係ですよ」と言ってはみたものの「それがルールだから」と言われ、しぶしぶ決裁文書を作って回したことがある。もちろんすぐに許可は下りたのだが、私は「なるほど普通の役所ではこういう手続きになるのか」と再認識したものだ。

 内閣府ではその普通の役所に近くなり、企画庁のような「外部への発信は自由」「本を出して一人前」といった雰囲気はなくなったのだろう。

 第2は、エコノミストを志望する人が来にくくなったことだ。経済企画庁の仕事はそのほとんどが経済に関係しているから、企画庁に入れば経済関係の仕事をするのは当然である。ところが、内閣府は経済関係以外にも、地方創生、防災、沖縄開発、北方領土、男女共同参画など多くの業務を抱えているから、内閣府に入ったからといって経済関係の仕事ができるとは限らない。すると、「経済学部で勉強した知見を生かして経済分野の仕事をしたい」という人がそもそも志望して来ないということになってしまうわけだ。

 第3は、官庁エコノミストのロールモデルがいなくなってしまったことだ。内閣府に統合されてから既に20年近くが経過しているから、以前のような官庁エコノミストが見られなくなってからの時間も相当長い。すると、若手にとってはお手本とすべき官庁エコノミストの先輩が存在しないから、そもそも「自分もああいうエコノミストになりたい」という気持ちが起きないのかもしれない。

 私としては当然ながら、かねてから自分のような官庁エコノミストがもっと輩出して欲しいと思っていた。そのためにかなりの時間を使って若手が世に出るためのお手伝いをしたこともある。しかしなかなかうまく行かないまま時が過ぎるうちに、「もう二度と昔のようなことにはならないだろう」とやや諦め気味であった。しかし、贈賞式の場で多くの人が官庁エコノミストの復活を期待していることを知って、再び「何とかならないか」という気持ちになってきた。

 そんな中ちょっと嬉しいことがあった。内閣府の後輩が「今年の内閣府志望者の中に、志望理由として、小峰さんのような官庁エコノミストになりたいという人が現われた。恐らく今回の読売・吉野作造賞の報道を見て小峰さんの存在を知ったようだ」と言ってきたのだ。

 そうか、かつて私が宮崎勇さんの吉野作造賞受賞を目にして官庁エコノミストにあこがれたように、私自身の読売・吉野作造賞の受賞を「ああいう風になりたい」と考えてくれる若手がいるのだ。とても嬉しい。この賞を受けて本当に良かったと改めて感じたのだった。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。