The 100 Heads-up Issues #032

米欧カーカルチャーはなぜ違う?──ボンジョルノ西川淳のコラム・スペチアーレ 貴族趣味 vs カジュアル

貴族の愛玩物か万民の生活必需品か。欧州と米国ではクルマのイベントも大違い。文化にはその地域固有の事情がある。
米欧カーカルチャーはなぜ違う?──ボンジョルノ西川淳のコラム・スペチアーレ 貴族趣味 vs カジュアル

Words _ Jun Nishikawa Photos _ The Goodwood Revival / Bugatti Automobiles SAS

本稿は2016年10月発売の増刊号『GQ CARS Vol.2』に掲載した記事です。

グッドウッドでレースが行われていた1948~66年に活躍したクルマのみが参加できるレース、グッドウッドリバイバル。参加者は当時のファッションがお約束。

気分は中世の騎士

日本では、なかなかサブカルチャーの域を脱し得ない〝自動車趣味〞も、欧米のそれは社会に認められた立派な文化であるように見える。

モータースポーツにしろ、クラシックカーのイベントにしろ、観覧者の様子を眺めてみれば、それは一目瞭然だ。カメラ小僧ばかりが集い、マニアだけが垂涎する日本の現場とは違って、老若男女が笑顔をひろげる社会の縮図のようになっているのだから。

とはいえ、ヨーロッパとアメリカもまた、その有り様は違っている。筆者はこれまで、イタリアのミッレミリアやアメリカのグレートレースといったクラシックカーラリーには実際に参戦もしたし、イタリアのヴィラデステ(コンクール)やイギリスのグッドウッド(ヒルクライム&レース)、アメリカのモントレー・カーウィーク(コンクール&レース)といったメジャーイベントも長年にわたって見てきた。大好きなクルマを並べては、美を競い、覇を争う、といった参加者によるコンテンツと、それを見て喜ぶ観覧者のプロフィールこそ似た者同士であっても、イベントそれぞれのコンセプトや見せ方、雰囲気には、はっきりとした違いがあった。

ヨーロッパのそれは、あらゆる点で貴族趣味的である。自動車の出自、育ち方に極めて忠実である、と言っていい。「グッドウッド」を開催する英国のマーチ卿などはその代表例で、貴族が音頭を取り、役者も演じるイベントを、平民であるわれわれが喜んで観覧し、拍手喝采を送っている、という構図だ。要するに、F1の世界観である

そこには必ず一定の閉鎖性もあったりする。参戦はもちろん、観覧するにも正式な招待状が必要というイベントや、観覧者に当時のコスプレを強要するといったハードルを設けるイベントも珍しくない。

ミッレミリアに参戦したときのこと。立ち寄った先々での市民総出による出迎えがとても印象に残っている。例えばシエーナのカンポ広場。あの大きな広場が観衆で埋め尽くされ、クルマに触れんばかりにひしめく人々の群れのなかを、凱旋した軍隊よろしくクラシックカーに乗って行進する晴れがましさといったら!まるで中世都市国家の兵士になった気分だった。

クラスに分かれて美しさを競い合う、ペブルビーチ・コンクール・デレガンスの一コマ。賞を与えることで価値を公認するという側面も。

参加資格は先着順

対して、自動車をいち早く大衆化することに成功したアメリカは、もっとざっくばらんでカジュアル、商業主義的だ。参加者はいわゆるアメリカンドリームの達成者たちばかりで、より多くの人に愛車を見てもらいたいのだろう、クルマを走らせて競い合うラリーやレースもあるが、どちらかというと、個々の美しさを華やかに競い合うギャザリングやコンテストを好む。

プロフェッショナルなモータースポーツにしてもそうだ。大衆を相手にする限り、エンタテインメントに徹しなければならない。観客席どこからでも全てのレース内容が見渡せるオーバルコースレースがアメリカでは主流であるのも頷ける。

ラリー競技のグレートレースであっても、根底に流れるコンセプトは同じだ。1972年以前に生産されていればどんなクルマでも、そして誰でも参加でき(先着順で!)、特別な装備を使わずに楽しめる。そして、オーガナイザーは参加者をファミリィと呼んで抱きしめるのだった。ミッレミリアの事務局がよりふさわしい個体を権威主義的に選ぶ姿勢と は対照的だ。

つまるところ、クルマが文化たりえる所以は、そこにれっきとした発生の根拠があり、独自のシステムが作用し、社会による一定の参画や参加が認められるかどうかにかかって いる。

クルマ社会が成熟したと言われる日本でも、そろそろユニークなクルマ文化が生まれてきてもいい頃だ。