世界最大規模のゲームクリエイター向けカンファレンスであるGDC(ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス)。アメリカ・サンフランシスコにて2022年3月21日から25日(現地時間)にかけて開催されたGDC 2022でも、さまざまな最新技術や制作秘話などが語られた。本記事で取り上げるのは、1992年にid Softwareが開発し、FPSというジャンルの先駆けとなった『ウルフェンシュタイン3D』の制作当時を振り返るセッションだ。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

 登壇したのはid Softwareの共同創設者であり、『ウルフェンシュタイン3D』制作メンバー6人のうちのひとりでもあるジョン・ロメロ氏。当時の詳細を語るのは初めてだというジョン・ロメロ氏だが、今回のセッションでは、開発が始まったきっかけに始まり、開発を取り巻く環境の変化や『キャッスル・ウルフェンシュタイン』から着想を得た本作がタイトルを『ウルフェンシュタイン3D』にできた経緯など、さまざまなエピソードが披露された。

 『ウルフェンシュタイン3D』のファンにとって興味深い内容なのはもちろん、セッション後に行われた質疑応答も含めレベルデザインやデバッグなど、ゲーム制作に対する心構えなども語られているので、本作を知らない人もぜひ目を通してみてほしい。

1992年1月:開発がスタート。ゲームの核を見極めることの重要性

 『ウルフェンシュタイン3D』の開発がスタートしたのは1992年1月だが、ロメロ氏はその少し前から振り返り始める。id Softwareは前年の1991年、下半期の6ヵ月で『コマンダー・キーン』シリーズや『カタコンベ3D』など5本ものゲームを開発し、リリースしていた。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】
FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】
FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】
横スクロールアクションの『コマンダー・キーン』シリーズと、『ウルフェンシュタイン3D』の土台になったとも言える『カタコンベ3D』。

 年が明けると『コマンダー・キーン7』の開発がスタートし、プロトタイプの制作も順調に進む。しかしデモ版が完成した夜にロメロ氏が「もう『コマンダー・キーン』は作りたくない」とこぼし、開発メンバーもこれに同意。ロメロ氏が『カタコンベ3D』のような3Dゲームを再び作ることを提案すると、開発メンバーの疲弊ぶりを察したクリエイティブディレクターのトム氏もアイデアを出し始めた。

 話し合いのなか、ロメロ氏は「1981年にMuse Softwareがリリースした『キャッスル・ウルフェンシュタイン』の新たなバージョンを作るのはどうか」と持ちかける。トム氏も含めメンバーは同作が好きだったこともあり、この提案はすぐさま受け入れられた。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】
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Muse Softwareの『キャッスル・ウルフェンシュタイン』。第二次世界大戦時を舞台にしていることや牢屋からのスタートなど、設定面は『ウルフェンシュタイン3D』に色濃く受け継がれている。

 1月中旬、『カタコンベ3D』のエンジンを基に『ウルフェンシュタイン3D』の開発がスタート。当時は16色表現が主流だったため、グラフィック面を手掛けたエイドリアン氏はタイトルスクリーンやキャラクターのスプライトを16色で作り始めた。2Dで描かれるキャラクターはモーションを1枚1枚描く必要があり、3Dゲームである以上前後左右の向きでのアニメーションパターンが要求される。その作業量は膨大だ。

 作業量の多さに気づいた制作陣は、のちに『ウルフェンシュタイン3D』の販売を行うAPPOGE Softwareの開発者であるジム・ノーウッド氏に助力を求める。こうしてエイドリアン氏とノーウッド氏によるスプライト制作が進んでいった。しかし、16色での作業には待ったがかかることになる。

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開発当時に制作された16色のタイトル画面とキャラクター。リリースされた際のタイトル画面はセッション内に登場しなかったが、画面構成はほぼ同じなので興味があれば検索して見比べてみるといい。

 当時、APPOGE Softwareはまだ3Dゲームをリリースしたことがなく、『ウルフェンシュタイン3D』の話を電話で聞いた創設者のスコット・ミラー氏は大いに喜んでいた。しかし電話を切る直前、ミラー氏は「16色のことは忘れて256色で作ってくれ」と言い残したのだ。

 この大きな変更をメンバーに伝えると、プログラマーのジョン・カーマック氏はしばし沈黙した後、「コードは綺麗になるし、高速化できるな」と答えた。エイドリアン氏は16色から256色への切り換えをすべてひとりで対応すると宣言。スプライト制作に協力していたノーウッド氏は、ここで自身のゲーム開発に戻っていった。

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光の三原色である赤・緑・青をそれぞれ256段階で表せる256色表現では、色の組み合わせも1600万パターン以上。

 思わぬ変更はあったものの、開発は大きなトラブルもなく進行していく。まず最初に決定したのがレベル(ステージ)構成だ。リリースされた『ウルフェンシュタイン3D』では各エピソードに10個のレベルが用意されているが、この1エピソードにつき10レベルという数は最初の段階で決まっていたという。当初はまずシェアウェア(※1)エピソードを出し、その後ふたつの追加エピソードを買ってもらう算段だった、ともロメロ氏は語る。

※1 シェアウェア:使用期限などの制限がかけられたソフトウェア。期限後は製作者に使用料などを払うことで制限を解除できる。

 最初にレベル制作を行ったのはロメロ氏とカーマック氏。当時ロメロ氏はTED5と呼ばれるツールを使用しており、カーマック氏も同様の2Dマトリクスを使用していたため、ロメロ氏はTED5を改造し、『ウルフェンシュタイン3D』用のツールにしていく。ツール内には背景と前景、2枚のレイヤーがあり、背景には壁を、前景にはキャラクターとアイテム、通路を配置する仕様だったという。

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当時の開発画面。部屋ごとに色が異なっているのは、のちほど登場する“サウンドゾーン”に関係している。
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のちにレベル制作を行ったトム氏が手掛けたシェアウェアエピソードのレベル1。この時点ではサウンドゾーンの色が入っていない。
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当時の解像度は320×200。この数字だけでもいまとはかなり環境が違う。

 デザイン面ではトム氏がTED5で使用する敵やアイテム、壁や扉などを示すアイコンを制作したほか、シェアウェアエピソードに登場させる敵(殺人犬、衛兵、親衛隊、ボス)の原案も作成。これをもとにエイドリアン氏がスプライトを制作した。敵ごとに歩行、被弾、射撃、死亡モーションを作るだけでもかなりの作業量だが、加えてアイテムや壁、武器のテクスチャなどもエイドリアン氏がひとりで手掛けたそうだ。

 また、本作にはオーディオ面でも目立ってほしかったとロメロ氏は語る。キャラクターの声やリアルな銃声を作るうえで、当時市場で地位を確立しつつあったサウンドカード“サウンドブラスター”のオーディオプレイバック(録音した音声を再生する機能)が役に立ったようだ。BGMはMIDIで制作され、SEは後方互換性を保つためにMIDI版とPCスピーカー版を用意する必要があったという。

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トム氏のキャラクター原案スケッチ。『ウルフェンシュタイン3D』には機械に乗り込んだ(またはパワードスーツを着込んだ)ヒトラーが登場しており、スケッチに描かれているのはその原案と思われる。
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4種の敵と歩行パターンを描いたスプライト。1キャラの歩行モーションだけでこの数なのだから、トータルの作業量は想像するだに恐ろしい。

 デザインとオーディオに続き、ゲームプレイの制作もスタート。オリジナルの『キャッスル・ウルフェンシュタイン』には敵に警戒されないように死体を隠す、倉庫から食料や弾薬を盗むなどのステルス要素があり、開発初期では『ウルフェンシュタイン3D』でもこれらの要素を再現していた。

 しかし各種要素を入れ込みながらプレイを重ねていくと、おもしろさの核になっていたのはラン&ガン、つまり走り回って銃を撃つ部分だったことが判明する。オリジナルから引き継いだステルス要素はゲームスピードを低下させ、ゲームのコアとなるラン&ガンの魅力をむしろ削ぐものになってしまっていたのだ。

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 「ゲームを作っているときは作品のおもしろさをなるべく早く見つけ出そうとするが、ときにはコアになると思っていた部分におもしろさが見つからないこともある。ゲームの声に耳を傾けないといけないんだ」

 そう語ったロメロ氏は、『ウルフェンシュタイン3D』の魅力は猛スピードで駆け回る疾走感と、すさまじいまでに暴力的な銃撃戦にあった、と続ける。ガトリング砲の銃声、プレイヤーを狙う敵が立てる音、撃たれたとき、死んだときの音。それらがゲームを脈打たせる鼓動だったのだ。

 改めてゲームのスピードを重視した結果、ゲームデザインは簡略化されていく。敵の死体を隠す要素や弾薬などを探し回る要素など、ゲーム速度を低下させるものは排除され、銃撃戦に特化した作品になっていった。

1992年2月:進むゲーム制作と浮上した売却の可能性

 2月に入るとゲーム全体の制作が進み、敵は衛兵と親衛隊が、主人公の武器はナイフ、ピストル、マシンガンが動くようになり、序盤のレベルもだんだんと形になってきた。エイドリアン氏の作ったテクスチャもゲーム内で確認できるようになり、最初のレベルは城の監獄に見えるようになってきたという。

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 ここで話は1ヵ月ほど前にさかのぼる。ロメロ氏は当時、シエラ・エンターテインメントが販売していた『キングズ・クエスト』シリーズが好きだった。『コマンダー・キーン』の最新作ができた際、同社にこれを贈ったところ、あちらからビジネスの話を持ち掛けられたのだ。「マジかよ」と驚いたロメロ氏は、翌週シエラ社に向かった。

 当時id Softwareのあったウィスコンシン州マディソンが冷え込む土地だったのに対し、シエラ社が居を構えるカルフォルニア州オークハーストは暖かかった。その印象も手伝ってか、シエラ社訪問はすばらしい体験になったという。同社の共同創始者であるケン・ウィリアムズ氏に案内され、ロメロ氏の父親が熱中したゲームを作っていたウォレン・シュウェイダー氏とも出会うことができ、トム氏とロメロ氏はその場に膝をついてシュウェイダー氏を崇めたという。

 その後、プロトタイプ版『ウルフェンシュタイン3D』を披露する機会を得るも、ウィリアムズ氏は感心した様子を見せず、ほんの30秒ほどで逆にあちらが制作している作品を披露されてしまう。FPSという新しいジャンルのスターがここにあるのに、とこの反応の薄さにはロメロ氏も啞然としたようだ。

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『ウルフェンシュタイン3D』に見向きもしないウィリアムズ氏に、「こんな感じだったよ」と出したロメロ氏の画像。ガッカリ感溢れる表情に会場からは笑い声も。
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1年半前に『デンジャラス・デイブ・イン・コピーライト・インフリンジメント』のデモ版をソフトディスクの従業員に披露した際にも似たような反応だったとロメロ氏は振り返る。本作はid Softwareのスタート地点にもなった作品とのこと。

 再びビジネスの話になったが、id Softwareがシェアウェアの登録サービスで月に約5万ドルの収益を上げていると説明しても信じてもらえず、通帳のコピーまで見せることになったそうだ。しかしロメロ氏の話が事実だと知ったウィリアムズ氏は、シエラ社の株式250万ドルぶんで会社を買収したいと持ち掛けてきた。

 マディソンに戻ったロメロ氏たちは、月5万ドルの自分たちからすれば4年ぶんの収益に近い額ということもあり、売却の話に興奮気味。しかし株式での売却ということで、すぐに現金化できるかも気にかかっていた。そこで、「シエラファミリーには加わりたいが、10万ドルの前金と合意書を用意してほしい」と伝えたところ、売却の話は立ち消えになったそうだ。

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商談も決着し、ロメロ氏たちは『ウルフェンシュタイン3D』の制作に戻る。

 2月が終わるころにはゲームエンジンもほぼ完成し、ゲーム内には親衛隊たちに加えてジャーマンシェパードも登場。さらに偵察用のパスが設定されて敵が巡回するようになり、ゲームがよりリアルなものになっていったという。

1992年3月:サウンドゾーン、プッシュウォールの登場とオフィス移動

 3月に入ると、ゲーム性に大きく影響を与える要素が登場する。“サウンドゾーン”と呼ばれる範囲設定だ。ロメロ氏はプレイヤーが銃を撃つと敵が気づくようにしたかったが、レベル内に存在するすべての敵が一斉に持ち場を離れるようなことにはしたくないと考えた。

 初期のレベルデータ内ではマップの背景レイヤーに配置されていたのは壁とドアだけで、床の部分にはデータが存在していなかった。そこで、床のデータを使ってサウンドゾーンの設定が行われた。これにより、敵が銃声に反応するエリアをコントロールできるようになったのだ。

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 サウンドゾーンの導入により、廊下で銃を撃っても部屋の中にいる敵は反応しないようになった。しかし、これは扉が閉まっていた場合の話。サウンドゾーンは固定されたエリアではなく、扉を開けると奥にあるエリアが手前のエリアを浸食するようになっており、銃声の聞こえる範囲が広がっていくのだ。

 離れた部屋に同一のサウンドゾーンを設定することでもきたので、同じ部屋の敵が反応するだけでなく、ときには離れた部屋にいる敵も銃声に気づき、遠くからドアを開けて迫ってくる音が聞こえてくるなど、プレイにはかなりの緊張感がもたらされることになった。

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 一方で、アート面は再び作業量の多さと対応メンバーの少なさに直面する。エイドリアン氏はひとりですべてのアートを作るのが難しいことに気づき、ソフトディスクに勤めていたアーティストのケヴィン・クラウド氏を頼った。トム氏が連絡を取るとクラウド氏も乗り気だったようで、妻とともに1500キロ近い距離を車で一気に飛ばして来たという。

 面接も順調に進み、クラウド氏がマディソンでの住宅を探そうとすると、ロメロ氏たちもともにアパート探しにくり出した。当時ロメロ氏たちが住んでいたアパートは近場でドラッグの取引が行われるなど、治安がいいとは言い難い地域だったのだ。

 一度はマディソン内でアパートを探した一行だったが、深夜にロメロ氏が発した「もう寒い土地にはいたくない」との発言をきっかけに、ダラスに居を構えることに決める。そして彼らは住居とオフィスの計5部屋を契約し、id Softwareはテキサス州メスキートに自社オフィスを開くこととなる。同時期にロメロ氏とのかつてからの知り合いであったジェイ・ウィルバー氏の雇用も決まり、ウィルバー氏とクラウド氏は4月1日から仕事を始めることになる。

 引っ越しが進むなかもゲームの制作は進み、敵やレベルの制作、ボビー・プリンス氏が制作した曲の組み込み、メニューシステムの制作などが進められた。しかし、レベルを作っていく中で何かが欠けていることにロメロ氏は気づく。ゲームプレイはスムーズでハイペースのシューティングゲームにはなっているものの、彼らがそれまでの作品に入れてきた要素がなかったのだ。隠し部屋である。

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 それまでのシステムでは部屋を隠す手段がなく、“プッシュウォール”を作るのがもっともいい解決法だという結論が出る。壁に向かってスペースキーを押せば、壁が動いて奥に進めるというものだ。コードが乱れるからとカーマック氏は反対したが、ロメロ氏たちが必死に説得したこともあり、4月になるころにはプッシュウォールが組み込まれることとなった。

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FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】
プッシュウォール実装後、トム氏はノリノリで既存のレベルに隠し通路を足していったという。2枚目の壁にある“P”がプッシュウォールを示す目印。

1992年4月:『ウルフェンシュタイン3D』のタイトル決定とマーケティングによる大きな変化

 4月に入ると、ウィルバー氏はもっとも重要な仕事のひとつに取り組み始める。それは、オリジナルの『キャッスル・ウルフェンシュタイン』のトレードマークの所有者を突き止めることだった。開発メンバーは“ウルフェンシュタイン”の名を気に入っており、長い時間をかけてもこれを超えるタイトルを考え出すことはできなかった。しかしその名を使うにはトレードマークの取得が必要だ。

 1981年に『キャッスル・ウルフェンシュタイン』をリリースしたMuse Softwareはメリーランド州にあったが、すでに事業を撤退していたため、ウィルバー氏はそこで手がかりを探すことになる。「忘れないでほしいんだけど、これはインターネット誕生以前の話だ」

 ロメロ氏は笑いながらそう付け足す。しかしウィルバー氏は何とか版権の所有者を探し出した。版権を持っていたのは、閉鎖した会社の資産を購入していた女性で、彼女はMuse Softwareの全知的財産を所有していた。ウィルバー氏が5000ドルでトレードマークを購入し、晴れて“ウルフェンシュタイン”の名をタイトルに使えるようになったのだ。こうして新しい名前を考える必要はなくなり、3Dを付け足した『ウルフェンシュタイン3D』が誕生した。

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 4月半ばには、すべてのオーディオをゲームに組み込む必要があった。作曲を担当するプリンス氏はリモートで作業を行っていたが、ゲームにはまだSEも必要で、ゲームを見て感触を掴んでもらう必要もあったため、機材とともにプリンス氏をオフィスに呼びこむことに。

 開発の大半は小さなオフィスの2階で行われていたそうだが、トム氏とロメロ氏はかなり賑やかに開発を行っていたらしい。エンジンが完成して敵AIが正常に動作するようになると、カーマック氏は静けさを求めて自分のアパートに移動したという。

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トム氏のデスクを写した当時の貴重な写真。

 プリンス氏はオフィスにやって来た際に高品質のマイクも持参しており、ゲーム内のボイスはすべてこのマイクを使って収録された。ボイスはロメロ氏とトム氏が担当し、エイドリアン氏は親衛隊用のSEを制作。クレイジーな死亡サウンドを考えるのは楽しかった、とロメロ氏は笑顔で振り返った。

 プリンス氏はリリース前にチームから離れることが決まっていたため、まだ最初のシェアウェアエピソードを作っている段階だったが、リリース予定の3エピソードぶんの全オーディオを収録必要があったという。

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 6月末にはリリースできるだろうという目途が立ったころ、APPOGEのスコット・ミラー氏から電話が。シェアウェアエピソードが完成間近であることを伝えると、ミラー氏はシェアウェアエピソードが完成したらすぐさまこれをアップロードし、受注を開始するというアイデアを明かした。残りふたつのエピソードに着手もしていないことはミラー氏も承知していたが、全体のデザインが終わっていればレベル制作はすぐに進められることもわかっていた。何より、注文の受付が始まったら残り2エピソードの開発を急がざるを得ないだろう、という考えだったのだ。

 ミラー氏はさらに、マーケティングについてもあるアイデアを持っていた。現在予定している3エピソードに加え、さらに3エピソードを用意することができれば、ヒントブックを出すことができる。そうなれば、『ウルフェンシュタイン3D』は下記のような価格設定が可能になるというものだ。

  • 3エピソード(30レベル)が遊べる“トリロジー”:35ドル
  • 追加の3エピソードが楽しめる“ノクターナル・ミッションズ”:15ドル
  • 全60レベルぶんの詳細な攻略法などを載せたヒントブック:10ドル

 これはとても刺激的な価格設定だった。3エピソードに35ドル払うのであれば、15ドルで楽しみを2倍にしない手はないというわけだ。また、当時はネットがない時代。60ものレベルを攻略するうえでヒントブックも欠かせないものとなる。ミラー氏が6月末までの2ヵ月で追加の3エピソードとヒントブックを作れるかと聞くと、ロメロ氏とトム氏は顔を見合わせたのち、「できると思うよ」と答えたのだった。

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 4月が終わることには開発も大詰め。『ウルフェンシュタイン3D』には類を見ないほどの暴力性があったため、ロメロ氏とトム氏はタイトル画面の前に偽のレーティング画面を出すことに決める。70年代の映画には“保護者の指導が必要:PG-13指定”というレーティングがあったことにあやかり、本作は“激しい虐殺を含む:PC-13指定”としたのだ。「冗談のつもりだったけど、振り返ってみればこれが史上初めて自主的にレーティングされたゲームになったわけさ」とロメロ氏は語る。

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1枚目が『ウルフェンシュタイン 3D』で表示される偽のレーティング、2枚目が映画で使われていたレーティング。

1992年5月~6月:シェアウェアエピソードの完成から怒涛のレベル制作

 完成まであと数日となった『ウルフェンシュタイン3D』。データをまとめてフロッピーディスクに収めるのはロメロ氏の仕事だったが、それまでの作品と異なり『ウルフェンシュタイン3D』は1.44メガバイトのフロッピー1枚に収まるサイズではなかった。そこでロメロ氏は、ゲーム全体のZipファイルを分割して複数のディスクに載せる分割ツールと、分割したデータをインストール先のハードディスクで統合し、解凍するツールを作り上げる。

 分割ツールのプログラムはわずか6時間で完成し、ロメロ氏はこれをICE(インストレーション・クリエイション・エディター)と命名。続いてICEで分割されたファイルを統合するde-ICEプログラムを2日間で作成した。de-ICEはプレイヤーがインストール中に誤ってディスクを抜いてしまうようなトラブルを防ぐ仕組みも取り入れていたという。これらのツールはその後も何年と使われ、APPOGE社にも提供したそうだ。

 そして5月4日、開発メンバーはいつも通り深夜にテストをくり返し、ゲームに問題がないこと、配布ファイルにREADMEなどの必要なファイルが入っていることを確認した。そして『ウルフェンシュタイン3D』のシェアウェアファイルは、当時すべてのゲームがアップロードされていたソフトウェア・クリエイションBBSにアップロードされる。当時、BBSにはプレイヤーたちが気づくようにと、本作のリリースを知らせるテキストアートが表示された。

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 ファイルがアップロードされたのは朝4時。ハイタッチを交わしたロメロ氏たちは疲れ果てていたが、これですべてが変わると確信していた。ゲームの大量生産に向けた準備が進むなか、ロメロ氏とトム氏は5月末までに残りのレベルを完成させるべく、狂ったように制作に挑む。

 しかし、彼らの席の横にあったのはネオジオと『餓狼伝説』、そしてスーパーファミコンと『ストリートファイターII』だった。横スクロールアクションの『コマンダー・キーン』に比べ、『ウルフェンシュタイン3D』のレベル作りは非常に退屈で、集中力を保つのは至難の業だったようだ。制作の合間に格闘ゲームで目を覚ましでもしないと、作業を進められなかったという。しかし苦労の甲斐あって、なんとかエピソード3までの全レベルが完成。

 マスターディスクを作ってミラー氏に届けたロメロ氏だったが、ミラー氏は「トリロジーの注文はほとんどない」と告げる。ミラー氏のマーケティングが功を奏し、注文の99%はトリロジーに追加エピソードとヒントブックを加えた60ドルのパッケージに集中していたのだ。5月末には4000件を超える注文があり、『ウルフェンシュタイン3D』は初月で25万ドルの売上を上げた。これは『コマンダー・キーン』シリーズの業績を大きく上回っていた。

 この大きな成功はロメロ氏たちのモチベーションにもつながり、その後も深夜の作業を重ね、追加エピソードであるノクターナル・ミッションズの3エピソードも作り上げた。その先に取り掛かったのがヒントブックだ。ヒントブックには各マップの図面とトム氏、ロメロ氏によるヒントが記載された。ヒントブック作りは楽しく、開発の中でもハイライトと言える場面だったそうだ。

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ヒントブックにはタイトル画面の制作過程といった制作秘話も収録されていたようだ。

 ヒントブック作りに興が乗ったロメロ氏は、自身でプレイしたシェアウェアエピソードの最速タイムをリスト化し、各レベルの最初のページにそのタイムを記載した。「PCゲームにおけるスピードラン現象を非公式に始めたとも言えるね」とロメロ氏は振り返る。また、その後制作された『DOOM』では正式にスピードランを取り入れゲームプレイの録画、再生を可能にしていたという。この機能はプレイヤーには提供されていなかったとのことだが、1990年にそういった機能を実装していたのは驚きだ。

 追加エピソードやヒントブックも完成し、1992年6月15日、テストを終えたロメロ氏はマスターディスクを作成し、ミラー氏のもとに直接ディスクを届けに向かった。マスターディスクを郵送ではなく直接手渡ししたのはこれが初めてだったという。こうして『ウルフェンシュタイン3D』はリリースされ、FPSというジャンルを世に生み出すこととなった。

 結果として、シェアウェアエピソードには4ヵ月、残りの5エピソードは2ヵ月で制作された。6ヵ月で6つのエピソードを、6人の会社が作り上げたのだ。「この“6、6、6”という数字は次回作の重要にポイントになった。言っていることはわかるだろう?」という言葉でロメロ氏は講演を終えた。

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その後制作された『DOOM』ではイースターエッグ(隠し要素)として、BGMの周波数などを可視化したスペクトログラムに“666”の数字と逆さ五芒星が描かれていた。

Q&A:流血表現の器具や移植への考え、レベルデザインの考えなど

 以下、セッションの後半に行われたQ&Aの内容を紹介していく。

Q1.ビデオゲームにおける流血表現が問題になることは心配していましたか?

 会社の外側のことは何も心配していなかった。当時は自分たちが遊びたいと思うゲームを作っていただけだったし、『ウルフェンシュタイン3D』のようなゲームを見たこともなかった。それまでにあったゲームでもっとも血にまみれていたのは、1982年にリリースされた『The Bilestoad』というゲームだ。ただ、これはApple II向けのゲームで、リアルには見えなかった。『ウルフェンシュタイン3D』もカートゥーンでリアルではないけど、こんなに暴力的でおもしろいものは見たことがなかった。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

Q2.シェアウェアエピソードでコンテンツの一部だけをプレイさせて、追加の部分を購入させたいと思わせる方法はどう思いついたのか?

 最初のシェアウェアエピソードを無料にして、あとのエピソードを登録制にするというのはスコット・ミラーのアイデアで、天才的なものだったと思う。ゲームの分割については、その前に作っていた3作品が、それぞれシリーズの中でのエピソードを描くものだったんだ。『ウルフェンシュタイン3D』では城に閉じ込められて、エピソード3の最後でヒトラーを殺すというストーリーがあった。

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 最初のエピソードでその後どう展開するか、何を体験できるかを味わわせてあげて、3本目の最後に物語の結末があるなら、みんな3本目まで買いたくなると思ったんだ。最初のレベルがあって、その最後にボスがいる。そのレベルをどんどん突破していくんだけど、10レベルのボリュームがちょうどよかった。それまでに16レベルあるゲームを作ったこともあるけど、10レベルで十分ゲームプレイは盛り込めるんだ。

 1991年には短期間でゲームを作ったこともあったから、時間の制限がない1992年には30レベルを作り上げることはまったく問題ないと思ったよ。それまでの経験があったからできたことだね。

Q3.コンソール(家庭用ゲーム機)への移植について教えてほしい。

 『ウルフェンシュタイン3D』が出た後、日本のイマジニアという会社からSNES(スーパー・ニンテンドー・システム。スーパーファミコンのこと)版を出すために頭金で10万ドル、その後ロイヤリティも発生するというオファーがあったんだ。驚いたね。移植はほかに委託して任せて『DOOM』を作っていたんだけど、移植が始まってもいないことを知ったんだ。そこで『DOOM』の開発をいったん停止して、SNESのことを調べて、規制に対応するために血の表現を変えたり犬をネズミに変えたりして、移植版を作るのに3週間かかった。いい仕事をしたと思うよ。『ウルフェンシュタイン3D』を自分たちで移植したのはこのときだけだね。

 『DOOM』はアタリ・ジャガー(※2)用に移植を出した。でも基本的に自分たちで移植はしなくて、やるとしたら移植することが楽しめる場合か、緊急事態のときかのどちらかだった。『Quake』を作っていたときにはミッドウェイが『DOOM 64』を作りたいと言ってきたんだ。彼らはすでにプレイステーション版の『DOOM』を作っていて、仕事ができることはわかっていたから「やりたいようにやってくれ。『DOOM』のIPで何かおもしろいものを作ってみてくれ」と伝えたよ。結果、本当にクールなゲームを作ってくれた。同じキャラクターでもよりクールに見えて、ライティングなんかも全部よかった。

※2 アタリ・ジャガー:1993年にアタリから発売された家庭用ゲーム機。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

 ときには、移植版がオリジナルの単なるコピーではなく、独自の作品になるのもいいことだと思う。全部に新しい部分や違いがあるから、私もコレクターとして全部集めたくなるよ。場合によっては独自のストーリーがあるかもしれないしね。そうすることに意味があるなら、移植で手を加えるのはアリだと思うよ。いまの時代はどのハードでも同じものを出さないといけないけどね(笑)。

Q4.『ウルフェンシュタイン3D』でもっとも楽しかった挑戦は?

 ジョン(カーマック氏)にプッシュウォールを作らせようとしたときかな(笑)。それ以前の『ウルフェンシュタイン3D』はクリエイティブ的には『コマンダー・キーン』から一歩退いてしまっていたんだ。『コマンダー・キーン』は隠し要素に溢れていたけど、『ウルフェンシュタイン3D』にはそれがなかったからね。それに、ブロックを並べるだけだからレベルを作るのも退屈だった。説得に成功してからはそれまでに作ったマップに隠し通路を仕込みまくったよ。

 それ以外は技術的な問題もなくて、「さあ作るぞ!」って感じだったね。プッシュウォールが唯一の壁だったかな。おもしろさのコアを見つけていったときに、コアのまわりにもっとおもしろさが必要だったんだ。だから何とか実装した。それがいちばんクレイジーだった部分かな。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

Q5.当時使っていたスプライトツールについて教えてほしい。

 まずゲーム開発者として、ファイルの数が膨大になることは防ぎたかった。当時はひとつあたりのファイルを保存する際にブロックされてしまう領域がいまよりも大きく、ファイル数が増えるほど容量を無駄にしてしまうからだ。

 そこで私が作ったのがiGrabというツールだ。すべてのアートは320×200の解像度の中で作られ、エイドリアンはすべてのものを8×8ピクセルの中で制作した。すべてのデータは巨大なひとつのデータファイルに収められ、その座標をスクリプトで指定してロードするんだ。壁のテクスチャから何まですべてね。ゲーム全体がひとつの大きなファイルに収まるようにしたんだ。

 『ウルフェンシュタイン3D』はハイスピードなゲームだから、壁のテクスチャを速く読み込む必要があった。データは大きなファイルに入れてあったけど、バーチャルマップのような要領で、すぐにデータの場所を特定して圧縮されていないデータを持ってくるようにしてあるんだ。高速ロードのために壁のテクスチャは圧縮せずにいたから、MODも作りやすかったんだよ。VGAGrapg.W 3Dのファイルを開いて、上書きするだけだからね。

 『ウルフェンシュタイン3D』以降、みんながMODでレベルを作るためにゲームのことをすごく調べていると知ったから、『DOOM』は完全にオープンな形にしたよ。『ウルフェンシュタイン3D』のデータがああなっていたのはみんなに触ってほしくなかったんじゃなくて、データを圧縮して複数のディスクに保存するためだったからね。『DOOM』はすべて圧縮されていない状態にして、スペックも公開して自由に変更できるようにした。

 80年代の早い段階でもMODは流行っていて、『Eamon』みたいに無料で触れて、自由にアドベンチャーゲームを作れるゲーム作りのシステムもあったんだ。70年代にはゲームが人の手から手に渡るときにいつも改造されていたよ。『ウルフェンシュタイン3D』以前はアドベンチャーゲームがよく改造されていたけど、それは改造しやすかったからなんだ。

Q6.レベルデザインについて詳しく教えてください。テストはどのように進めていましたか?

 レベル作りとテストは段階を分けていたわけではなく、レベルを作ったらすぐにプレイしていた。ときには迷うこともあるけど、それでもいいんだ。当時はまだ3Dゲーム自体が珍しくて、『DOOM』が登場するまではどれも90度に区切られた壁がある迷路ゲームだった。マップが広いから道に迷うことも珍しくなかった。

 プレイヤーを迷わせないために、『ウルフェンシュタイン3D』では死体が残るようにしたんだ(笑)。死体があると「ここには来たぞ」ってわかるだろう。それと、レベル内のセクションごとに壁を変えて、進捗がわかるようにしてある。最初は青い石、つぎは茶色の木、そのつぎは白い石、みたいにね。当時はチュートリアルもないから、自分で理解するしかないんだけど、80年代のゲームに比べたら『ウルフェンシュタイン3D』はわかりやすかったと思うよ。それまではゲームがプレイヤーを殺しに来ていて、死んで覚えるものだったからね(笑)。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

 レベルデザインをしているときは、ここで何をするのか、どこにおもしろい秘密を隠すのか、そういうことをひたすら考えていたよ。急いで60ステージ作らないといけなかったから、作ったレベルをお互いにプレイして、楽しかったかどうかをコメントし合うんだ。QAチームもなかったから、自分たちがQAになるんだ。作って、遊んで、おもしろくなかったら直す。

 「バグを見つけたらすぐ直す」が会社の文化だったよ。少なくとも遊んでいてすぐにわかるバグがある状態ではリリースできないからね。遊んでおもしろければそれでいいし、そうでないなら改善する。バグは直す。これだね。

Q7.これからゲームの開発を行う人にアドバイスをするとしたら?

 バグを見つけたら直す、それが第一だ(笑)。自分のゲームを徹底的にプレイして、壊れるまでやるんだ。それで壊れたら、直す。テストをするのが早ければ直すのもすぐだ。逆に後からテストをすると直すのにも時間がかかってしまう。30分以上コードを書いたり作業をしたりするな。5分進めたらテストするんだ。それで何かおかしければ、いままさに手を加えた部分が原因なわけだからね。

 1日作業した後のデバッグなんて考えられるかい? クレイジーだよ(笑)。少し変更したらテストして、楽しかったら終わりでつぎの作業、おかしかったら直す、っていうことだね。

Q8.インディー界隈に戻りたいと思いますか?

 そうだね。ゲームジャムはよくやっていて、昨年もとてもクールなものができたよ。自分にとって、インディーこそがこの業界の命なんだ。そこで革新が生まれ、みんなが自分や家族についてのゲーム、コンセプトを持ったゲームを作っていて、『コール・オブ・デューティ』や『バトルフィールド』のようなものに飛びつこうとはしない。

 インディーゲームはよく遊ぶし、そこで新しい発見をすることもある。それがインディーなんだ。何でもいいから作ってみて、何かがどこかに引っかかって、それがいつか当たり前のものになっていく。『マインクラフト』みたいにね。あの作品はすべてを変えたけど、ああいうことはこれからも起こり得るんだ。メジャーなゲームも遊ぶけど、インディーゲームが好きだね。クールだよ。数時間で終わるゲームも好きだ。

Q9.国によってはナチスのコンテンツが禁止されたこともありますが、それについてはどう思いますか?

 作っているときはドイツのことは考えていなかった。アメリカにいるときにはアメリカのことしか考えないからね。いまはアイルランドに住んでいるから、アメリカのことはあまり考えないよ(笑)。しかも当時は24歳くらいかな。そのときはアメリカ人に売れればいいと思っていたよ。ドイツのことは知らなかったし、彼らが当時ヨーロッパ最大のゲームプレイヤーであるとも知らなかったよ。

FPSの草分け的作品『ウルフェンシュタイン3D』制作秘話。90年代のゲーム作りと現代にも通じるゲーム制作の心構え【GDC 2022】

 でもある日ドイツで発売禁止になったことを知った。ドイツでは公に出せないものが多く含まれていたからね。でもおもしろい発見もあったんだ。ベトナムで捕虜になっていたという人から「『ウルフェンシュタイン 3D』のおかげでフラッシュバックが治った」というメールが来たり、ユダヤ人の子どもたちが仕返しをした気分になれてうれしいと言っていたり、考えもしていなかったことが起きたんだ。開発中は世界のことを考えてもいなかったけど、多くの人を触発したんだ。すごくクールなことだったよ。

Q10.『キャッスル・ウルフェンシュタイン』の開発者であるサイラス・ワーナーからの反応はありましたか?

 あったよ。彼が『キャッスル・ウルフェンシュタイン』をリリースした11年後に『ウルフェンシュタイン3D』をリリースして、当時初のカラーノートPCを買ったんだ。東芝のもので、5000ドルしたよ。それに『ウルフェンシュタイン3D』を入れて、カンザスシティで開催されていた昔のプログラマー向けのApple IIコンベンションにトムやカーマック、レインといっしょに行ったんだ。コンベンションには毎回ゲストが出るんだけど、1992年のゲストがサイラス・ワーナーだった。クレイジーだろう。当時彼が語った音声はいまでもオンラインに残っているよ。

 その後、ホールに集まっていたらサイラスがやってきたから、ぜひ話したいと思ったんだ。彼は身長が205センチくらいあったんだけど、足が悪かったのか壁に手をついて歩いていた。僕らはいつも口でSEをつけてふざけていたんだけど、サイラスが膝をついた瞬間にトミーが銃声のSEを真似して、めちゃくちゃおかしかったな(笑)。その後彼と話をして、『ウルフェンシュタイン3D』が気に入ったし、クールだと言ってくれた。『ウルフェンシュタイン3D』の印刷したてのマニュアルにサインをもらって、会社のディスプレイケースに飾ったよ。

 この後に『ウルフェンシュタイン3D』の前日譚になる『ウルフェンシュタイン3D スピアー・オブ・デスティニー』というゲームを2ヵ月で作ったんだ。70年代か80年代のDCコミックブックでヒトラーがスピアー・オブ・デスティニー(キリストを刺した槍)を求めてスーパーマンやワンダーウーマンとやり合うんだけど、トムが色々調べてくれて、つぎはこれで作ろう、って決めたんだ。そこから『ウルフェンシュタイン』シリーズはオカルト要素が出てくるんだけど、トムがシリーズの将来につながる基盤を作ってくれたと言えるね(笑)。

Q11.ゲームのなかに仕込んだ秘密の要素について教えてください。

 『ウルフェンシュタイン3D』ではできることが少なかったから、隠し通路を作れるとなったときに、何ができるか考えたんだ。あったのはブロックを後ろに動かせるという要素だけだからね。だからどうやって秘密を作るか、秘密の秘密はどう作るか、いろいろ考えたよ。

 たとえば、あからさまなものは壁に目印が付いているんだ。壁に紋章が付いていたりね。でも、延々と続く木の板のどこかにも隠された秘密がある。さらに秘密のなかに隠された秘密もある。そういう風に、秘密にもレイヤーがあったんだ。デザイナーが新しいおもちゃを手に入れたときには、こういうことをするものなんだよ。どこにでも何かを仕込みたがるんだ。だから、秘密にも違いをつけるのが大事なんだ。

 ベータ版では迷路のなかに「APPOGE社に電話して“snappity”と言え」と書かれたグラフィックがあって、それを見つけて実際に電話をかけたら、ゲームを無料でもらえる、みたいなこともしていたんだ。でもベータ版がコピーされて秘密が公然のものになってしまったから、後でグラフィックの内容を「APPOGE社に電話して“Aardwolf”と言え」に変えたんだ。これはまだゲームに残っていると思うよ。