「勝てると思っていたわけではないし、負けると思っていたわけでもない。何が何でもやんなきゃいけないんだという、たったそれだけの話」(丸山氏)

 2012年8月31日、エンターテインメント業界の各所で活躍してきた黒川文雄氏が主催するトークイベント“エンタテインメントの未来を考える会”(黒川塾 (弐))が都内で行われた。

 音楽業界、映画業界、ゲーム業界など、エンターテインメント業界を幅広く渡り歩いてきた黒川氏が今回ゲストとして呼んだのは、丸山茂雄氏(247Music取締役会長)、赤川良二氏(ラルクス代表取締役)、藤澤孝史氏(T.C.FACTORY取締役)ら、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の創業メンバー。プレイステーションがいかにして生まれ、一大勢力へと成長したのかが語られた。
 丸山氏はSCE発足に重要な役割を果たしたエピック・ソニーの創始者であり、SCE取締役会長を務めたほか、赤川氏もSCE誕生前よりエピック・ソニーでプロジェクトに関わり、『アークザラッド』シリーズのプロデュースなども手掛けている。藤澤氏も同様に、SCEの立ち上げに参加し、サウンドグループを組織して、プレイステーションの起動音作成なども行いながら、『DEPTH』、『パラッパラッパー』といった、初代プレイステーションでの音楽ゲームのプロデュースなども行なっている。

初代プレイステーションを救ったのは『バーチャファイター』!? SCE創業メンバーたちがその成功の背景を語った_01
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▲左から黒川氏、赤川良二氏、丸山茂雄氏、藤澤孝史氏。

スーパーファミコンとプレイステーション

 赤川氏はまず、プレイステーションの原点、ソニーが90年代前半に任天堂と計画していたスーパーファミコン互換のCD-ROM機(その名もプレイステーション!)へと遡る。この製品が日の目を見ることはなかったのだが、実はこの交渉を行なっていたのが、かの久夛良木健氏(元SCEI代表取締役会長兼グループCEO)だった。
 丸山氏はこの背景を、久夛良木氏がソニーの技術者としてスーパーファミコンに使われていた音源チップ(SPC700)を開発していたことから、任天堂との接点があったのだと明かす。なぜオーケーが出たのかはわからないそうだが、久夛良木氏がしつこかったから面倒くさくなったのだろう、と冗談交じりに丸山氏。
 こうして久夛良木氏の執念で計画が動き始めるが、ひとつ問題があった。ハードを作るのならば、対応ソフトを作らなければならないが、ソニーは家電などのハードウェアのメーカーであり、ゲームを作れる部隊がないのだ。こうしてゲーム制作部隊として選ばれたのが、ファミコン時代からゲームを出している、丸山氏のエピック・ソニーだったというわけだ。

 赤川氏によると、当時のエピック・ソニーではCD-ROM用ソフトとして『フォルテッツァ』というタイトルを開発していたそうで、これはCD-ROMに詰め込んだ映像を読み出してきてスーパーファミコンのチップで展開し、表示するという「レーザーディスクゲームのようなもの」(赤川氏)で、世に出ていたらどうなっていたか興味はあると語るものの、うまくいかない予感はあったそうだ。
 しかし『フォルテッツァ』が完成する以前に、1991年のCESを機会にCD-ROM機ではPhilipsがパートナーに選ばれるということになり、そもそもこの“プレイステーション”構想が破談になってしまう。ソフト制作を依頼された側のエピック・ソニーを率いていた丸山氏は「俺たち被害者だよね」と振り返る。「(破談になるとは)どんな交渉をやっているんだ!」という怒りから、当時の担当取締役である出井伸之氏にかなり強い言葉でクレームの電話をかけたそうで、のちにソニーグループ全体の社長に就任した際には「青ざめたよね」とのこと。

ゲーム業界参入へ「おやめなさい」と言われ続けた窮地を救ったソフト

 そもそものハード開発の話が消え、ゲームを作る理由もなくなってしまったわけだが、久夛良木氏が当時の大賀典雄社長を執念で説得することに成功し、独自ハードとしてのプレイステーション計画がスタートすることになる。
 ここで黒川氏はプレイステーション成功の理由として、怒りのパワーがイノベーションにつながったのではないかと推測したが、丸山氏は「わかりやすい解釈」と一定評価はしつつも、「(ゲーム機を)作りたい」という気持ちの強さこそが原動力だろうと語った。つまり、「前の(スーパーファミコンのCD-ROM機)は軒先を借りる話」(丸山氏)だが、独自のハード開発となったことで、逆にやりたいことができるようになった。それによって一気に花開いたのではないかというのだ。任天堂との話がご破算になった際に「(久夛良木氏が)しめしめと思ったかもしれない」というのが丸山氏の見立てだ。
 これに藤澤氏も、プレイステーションの音源チップが、スーパーファミコン用の音源チップをベースに発展させてできていることに触れ、「怒りだけじゃなくて計算がないとできない」と付け加えていた。

 だが、当時はまだ任天堂が圧倒的なシェアを誇る時代。そして一定の成功を収めたPCエンジン(NECホームエレクトロニクス)などの例はあったものの、基本的に家電メーカーのゲーム業界参入はうまくいかないものだった。赤川氏は、当然ソニーも同じ轍を踏むだろうと思われていただろうと語る。当時セガにいた黒川氏は、ソニーの単独参入を聞いて、言葉を選んでも「向こう見ずなチャレンジ」と感じたという。
 それはプレイステーションをプレゼンしにコアメンバーが各地のゲーム会社を回った際にも同様で、「素晴らしいマシンだが、悪いことは言わないからやめておけ」とか、「(参入は)おやめなさい」といった反応が返ってきたと口々に語る赤川氏と丸山氏。

 また、過去を振り返る立場では、2Dグラフィックから3Dグラフィックへの移行をうまくつかんだことが成功の理由にも思えるが、赤川氏は、当時家庭用ゲーム機で3Dゲームを出すのはまだ時期尚早と思われていたそうで、3Dマシンの看板を降ろすことも検討されていたそう。そこにあるソフトが登場し、すべてが変わる。『バーチャファイター』の登場だ。赤川氏は「『バーチャファイター』がなければ違うマシンになっていた」とまで言う。

 当時、プレゼンテーションを行なっていたメンバーでも、3Dグラフィックスによりゲームがどう変わるかをイメージできていたのは久夛良木氏だけだったと丸山氏。それが『バーチャファイター』が出てきたことで、3Dグラフィックスによってゲームがどう変化するか、「ああいうことができるんだ」(丸山氏)ということがはっきりと見え、それによって3Dマシンとしてのプレイステーションビジネスの方向が定まったという。「(セガも)えらいタイミングで敵に塩を送るとは思わなかったんじゃないか」と丸山氏は振り返った。『バーチャファイター』を見たことでプレイステーション参入を決めたメーカーもあったとか。
 ちなみに『バーチャファイター』については黒川氏が独自に鈴木裕氏ら関係者への取材を進めており、書籍化を検討しているとのこと。

『リッジレーサー』から始まった抜きつ抜かれつの戦い

 ベクトルが定まり、一気呵成に進むことになったプレイステーション。赤川氏はもうひとつの成功理由として『リッジレーサー』がローンチタイトルとして出たことを挙げる。
 たとえば、ローンチで20万台売れても、ゲームは多くて20万本が限界になる。失敗すればもっと悲惨なことになる。つまり巨額の予算をかけた大型タイトルは、長い目線で見れば回収できるとか、そういった見込みでもないと開発費が回収できない。このために参入を見送ったメーカーがある中、『リッジレーサー』を高度に移植してくれたナムコの存在がなければプレイステーションは始まらなかったと丸山氏。
 黒川氏は当時、SCEの戦略発表会でこっそり撮影された『リッジレーサー』の映像を入手し、AM2研に見せたのだという。当時セガサターン登場に向けて移植中だった『バーチャファイター』はこの完成度にはなかったため、クオリティアップに注力することになったそう。「あんな抜きつ抜かれつの戦いはなかったね」と丸山氏が語る、プレイステーションとセガサターンの過酷な競争の始まりだ。

 そして先行したセガサターンは、その『バーチャファイター』の衝撃もあって好調な滑り出しを見せるわけだが、赤川氏は逆にそのことが“世代交代”への自信になったそう。「セガサターンがあの勢いで売れなかったらプレイステーションはわからなかった」というのが赤川氏の考えだ。ちなみに“次世代機戦争”というアングルは、プレイステーションのプロモーションを手掛けていた佐伯雅司氏が当時のメディアを“騙して”(赤川氏)仕掛けたものらしい。

 こうして1994年12月3日、プレイステーションが発売される。赤川氏がここで提示した成功の理由は、値段。確かに当時は1万円超えのソフトは当たり前だった。これはROMカセットが、容量増大につれてチップを積まねばならず、原価が高くなってしまうためだったと明かす。一方、CD-ROMはマスターを作ってしまえば一枚あたりのコストは低く、大量生産も効く。「製造側にとってもメーカーにとってもユーザーにとってもいい」と赤川氏。店頭で売り切れてからの補給が早くなり、商機を逃がさないといったメリットもある。
 藤澤氏は、CD-ROM自体はすでにあったものであることを指摘し、迅速に対応できる流通網を含めて“やりきった”のがよかったと補足した。

 一方で、丸山氏が示したのが、クリエイターを表に出していくという戦略だ。当時各社を回るにあたり、クリエイターの名前を出すべきだと主張すると、経営者には苦い顔をされる一方、クリエイターには喜ばれたという。当時も鈴木裕氏や坂口博信氏らの名前はすでに一般に広まってきており、そういう時代が到来しつつあるタイミングだったのだ。丸山氏は、自身が音楽業界にいたことから「ミュージシャン六本木にくれば「キャー」と言われる。言われたいだろう? 言われないのは寂しいだろう?」という口説き方をしたそうな。

 初期プレイステーションの名作のひとつ『パラッパラッパー』についても藤澤氏が振り返った。松浦雅也氏の音楽業界の蓄積を活かすようプロデュースしていたそうで、そのひとつが画面上部で左から右へと流れていく“楽譜”。今ではあらゆる音楽ゲームの基礎になっているデザインだが、これはDTMソフトの構成(左から右に音符やサンプルを置いていく)を取り入れたものだという。藤澤氏は、0から1を生み出したのではなく、1を別の業界に持ち込むことで10になった例ではないかと語った。

 かくして「ハードの変革期、制作の変革期、ビジネスモデルの変革期」(赤川氏)をうまくとらえ、見事に成功し一大ブランドを築き上げたプレイステーションだが、勝算はあったのか? 順序は前後してしまうが、質疑応答で丸山氏は、「勝てると思っていたわけではないし、負けると思っていたわけでもない」と語った。
 一般的には『ファイナルファンタジー』の参入が大成功への決定打とされているが、それは「このハードで作りたいと思わせた」(赤川氏)ことの結果にすぎない。
 丸山氏は「後には引けなかった」、「何が何でもやんなきゃいけないんだという、たったそれだけの話だもんね、俺の立場は」と振り返った。「めざせ100万台」というキャッチコピーがあったように、製造に必要な半導体を100万台分発注してしまっていたため、とにかく成功させなければいけなかったのだ。
 なお、プレイステーションのさらなる背景については、赤川氏による小社刊「証言。『革命』はこうして始まった プレイステーション革命とゲームの革命児たち」に詳しいので、そちらもご参照いただければ幸いだ。

現在、そして未来を生き抜くには

 では、三氏は苦境が伝えられる現在のゲーム業界に対し、どんなエールを送るのか? 丸山氏は、“後に残すことを考えて作り続けること”を、打開策として挙げた。いわく、映画が全盛期の時にテレビが出てきて危機が伝えられ、ラジオも危機を伝えられたが、それぞれの役割をシフトさせながら残っていると指摘。ゲームも同じで、「昔みたいに儲からない」と嘆くのではなく、予算がないならどう切り盛りしていくかを考えながら、とにかく作り続けるべきだと語り、「金が儲かるから文化なんじゃない。後に残すのが文化」、「クリエイターの人が文化として残したいんだったら、苦しいかもしれないけど作り続けること」と激励した。
 藤澤氏は同じく、現代が何でもフラットになっているからこそ今後質が重要視されるという考えを軸に、質とともにタイムリーなアプローチを取ること、未来へ残そうという気概のあるクリエイターが出てくる環境を用意することなどを挙げていた。宮廷音楽という一部の娯楽であったクラシックですら時を超えて残っているのだから、魂があるものは残るだろうし、複合芸術であるゲームならば、うまくかみ合えばほかのメディアより強いものを残すことができるかもしれないとも語った。
 そして赤川氏が挙げたのは、“常に新しいものをやること”。ともすると売れたものを真似したり、当たったことをやろうと思いがちだが、それでは刺激も減ってくるし、売り上げも全体として減っていく。ユーザーが求めるのは驚きであるとして、『アークザラッド』でユーザーを驚かせようと、ロンドンのロンドンロイヤルフィルオーケストラによるテーマ曲を収録したエピソードなども紹介。「人をびっくりさせるようなこと、感動してもらうことを考えるのがクリエイターやプロデューサーの仕事」、「こうやって課金すると儲かるというのをいくら考えていても、新しいエンターテインメントは生まれない」と語った。

 黒川氏が会の冒頭で挙げたキーワードは、“勇気”と“革新”。一歩を踏み出す勇気こそが、革新を生み出す。「すごいサービスが出てくるとこれで打ち止めかと思うが、何年か後にはさらにイノベーティブ(革新的)なものが出てくる」と黒川氏は語り、「新しいアプローチは新しい人が絶対に生み出してくれると思う」と未来への希望を述べ、しめくくった。