住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に踊りに行ったディスコの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう——。

「最初はディスコで流行っていた『ヴィーナス』(’86年)を日本語でカバーするための“勉強”という名目だったんですが、しだいに楽しくなって(笑)。マハラジャのプリンがすごくおいしかったし、なによりゴージャスな店内の雰囲気が非日常でした」

こう語るのは9月に『下町銀座』をリリースした、演歌歌手の長山洋子さん(53)。もの心ついたときから歌に囲まれ、触れ合っていたという。

「とくに父が民謡好きで、仲間同士で集って趣味で楽しんでいました。最後はお酒の席になるんですが、幼かった私もいつも参加していたんです」

民謡教室に通い、10歳からは津軽三味線も習い始めた。同時期に入会したのが、ビクター少年民謡会だ。

「もちろん、民謡以外のポップスや歌謡曲も好きで、ピンク・レディーやキャンディーズ、山口百恵さんの歌をテレビで聴いたり、自分でもマネしたりしていました。『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)や『レッツゴーヤング』(’74~’86年・NHK)は欠かさなかったし、ドラマではたのきんトリオが好きで『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)も見ていました」

もっとも印象に残っているドラマは、中学生のころに見た、山田太一脚本、古手川祐子、森昌子田中裕子らが出演した『想い出づくり。』(’81年・TBS系)。

「決して明るい内容ではなかったのですが、仕事や人生の壁にぶち当たった女性3人の、恋愛模様が描かれていました。思春期真っただ中の私には刺激的な内容で“大人の女性って、こんな恋愛をしているんだ”って、あこがれに近い思いも抱きました」

■高校生の頃は“切なさ”や“哀愁”が理解できなかった……

そんなごく普通の中学生活を送りながらも、“中学を卒業したらビクター少年民謡会も退会することに……。その先、どのように大好きな歌と関わっていけばいいのかな”と進路を考えていたとき、大きな転機を与えてくれたのが『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)だった。

「出演者が早口言葉に挑戦したりしていた『少年少女合唱隊』のコーナーで、同じように民謡に挑戦する回が何度かあったんですね。そこに、私たちビクター少年民謡会の子どもたちが登場し、郷ひろみさんにコブシの回し方を教えたりしたんです。付き添いの母親たちも興奮していたし、私もミーハーだったので、ご一緒したタレントさんから、サインをもらっていたと思います」

出演時、芸能事務所のスタッフに声をかけられたのが、歌手デビューのきっかけとなった。中学卒業後、芸能コースがある高校へ進学し、デビューの準備が始まった。

「演歌も民謡と同じように考えていましたが、ぜんぜん別ものでした。民謡はギリギリのキーまで上げておなかから声を出しますが、演歌は“間”を作ったり、抑えて歌う部分もあります」

技術的な練習はできるが、歌の世界観には人生経験も反映される。

「市川昭介先生からは『もっと切なく』『もっと哀愁を出して』とアドバイスされるんですが、高校生の私には、“切なさ”とか“哀愁”とかが、なかなか理解できなくて……」

1年半以上レッスンを受け、高2の春(’84年)には、阿久悠が手がけた『雪国』という曲でデビューすることまで決まっていた。

「デモテープも作っていて、いつでもレコーディングできる状態。それなのにデビュー4カ月前に、『洋子に演歌は早い。まずはアイドルとしてデビューする』と、方針が変わってしまったんです。戸惑いはしましたが、あまりに忙しくて、悩む時間はまったくなかったですね」

フィンランドで作られた原曲に、日本語の詞をつけたカバー曲を急きょ、レコーディング。「お人形さんのように、言われたとおりに動いて」、ようやくデビュー日に間に合わせたという。

「新人賞の賞レースで、ミニスカート姿で同期のアイドルと並んでいるときは“演歌を歌うつもりだった私が、なんでここにいるのかな?”と疑問に思っていました」

■芸能人は顔パスで…マハラジャ通いで鍛えられたリズム感

とはいえ、忙しかったのはデビュー1年目だけ。2年目に入ると、あらたにデビューしたアイドルに注目が集まるように。

「毎月初めにスケジュール表を渡されるんですが、2年目に入ると“うそでしょ、印刷し忘れてない?”って思うくらい、真っ白に。“これが現実か……。このままでは忘れられてしまう”って、血の気が引く思いでした」

そんな時期に、ディスコから生まれたバナナラマのヒット曲『ヴィーナス』と出合い、日本語バージョンを「洋子に歌わせてみようか」ということになったという。

「それまでディスコとは縁遠く、縦ノリで歌う経験もなかったため、事務所のスタッフから『勉強のつもりで、マハラジャに行って遊んでこい』と言われたんです。

ディスコブームの中心地・マハラジャには、テレビや音楽業界の人たちが毎晩のようにこぞって通っていたんですね。いつ行っても行列ができていたんですが、芸能人は顔パスということで入れてもらえて。『あまりにもリズム感がない』と言われていましたが、ディスコにいるとガンガン音が聞こえて、いやでも洋楽のリズムが体に入ってきました」

『ヴィーナス』はヒットし、自身初のオリコンベスト10入りを果たした。

「昼間、マハラジャを貸し切りにしてイベントを開催したり、夜は『歌いにきました。踊ってください』とプロモーション。すごく忙しくなって“これで歌手として生き残れるかもしれない”って、ようやく自信が得られたんです」

歌手ばかりでなく、女優としての活動を開始したのもこのころ。

「’90年からは時代劇『三匹が斬る!』シリーズ(’87~’95年・テレビ朝日系)に出演して、3年間、京都撮影所に通いながら、着物の着付けや所作を学びました」

一方で、演歌の勉強も一からやり直し、’93年、『蜩—ひぐらし—』で、念願の演歌デビューを果たすことができた。

「自分の描いていた道からだいぶ遠回りしましたが、今思うと一つのことだけを身につけるより、さまざまなジャンルを吸収したからこそ、現在の演歌歌手としての私があるんだと思います」

マハラジャ通いも、演歌歌手になる夢をかなえるための、重要な勉強の一つだったのだ。