琴光喜は野球賭博問題で解雇も“強さ”は本物だった…遅すぎた大関昇進が象徴する波乱の土俵人生

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 2010年に野球賭博への関与で解雇処分を下されながれながらも、土俵への復帰を求め続けた琴光喜。アマチュア時代から強さで知られ、入幕わずか7場所目で初優勝を飾った名力士である。その強さに魅了されたファンは多く、2014年に行われた断髪式には多くの後援者が出席した。波乱の土俵人生を振り返る。 ※双葉社「小説推理」2016年12月号掲載 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を加筆修正・再編集

父はトヨタ自動車相撲部の監督

「謹んでお受けいたします。いかなる時も力戦奮闘し、相撲道に精進いたします」

 平成19年名古屋場所後、大関昇進が決まった琴光喜は晴れ晴れとした表情で、こう口上を述べた。

 アマチュア27冠の実績を引っ提げての角界入りだったが、ここ一番のチャンスをものにできないまま、長く関脇に低迷。力士人生はすでに、後半戦に差し掛かっていた。「持てる力を出し尽くして、困難に立ち向かう」の意味を持つ「力戦奮闘」は、史上最年長の31歳3カ月で念願の大関の座を射止めた琴光喜の心情を、如実に表す言葉だった。

 愛知県岡崎市で生まれ育った琴光喜こと、田宮啓司は、相撲と出会うことを宿命づけられていたのかもしれない。

 地元・トヨタ自動車相撲部の監督を務める父の勧めで、幼い頃から相撲に慣れ親しんだ啓司は、各種大会に出場。父の指導を仰ぎながら、中学時代には全国大会でトップレベルの成績を残した。

 高校は親元を離れて、鳥取城北高校へ相撲留学。厳しい寮生活と相撲漬けの毎日を送り、3年間で50キロもの体重増を実現する。

大学相撲で大活躍

 高校横綱のタイトルを獲得して、名門・日大相撲部に進んだ啓司は、その実力と恵まれた体格を見込まれ、すぐにレギュラーに抜擢された。「久嶋啓太(久島海のち田子ノ浦親方・故人)以来の逸材」は、2年生だった平成8年に全日本選手権で優勝し、アマチュア横綱のタイトルを獲得。勢いは止まらなかった。

 なんと翌年もアマ横綱に輝き、学生横綱のタイトルもゲット。大学3年生にして、2つのビッグタイトルを得た啓司を、相撲界は「輪島(五四代横綱)級の超大物」と呼び、その動向を見守った。

 大学4年時、アマ横綱こそチームメイトの加藤精彦(のち高見盛=現・振分親方)に譲ったものの、2年連続で学生横綱となった啓司はアマ27冠という手土産と共に、平成11年春場所、佐渡ヶ嶽部屋に入門した。

 四股名は琴田宮。幕下付け出しでデビュー後は、3場所目の名古屋場所で全勝優勝。九州場所で新十両に昇進したのを機に、琴光喜と四股名を改めると、十両を3場所で通過。翌年夏場所で入幕を決めたのだが、場所前に左足のじん帯を痛め、新入幕の場所は全休に追い込まれる。

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