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弘化3年(1846年)、29歳の武四郎は、再び蝦夷地を訪れ、蝦夷地の北にあるカラフト(今のサハリン)南部の調査をおこなっています。
嘉永2年(1849年)の第3回目の蝦夷地調査では、国後島、択捉島を詳細に調査しました。アイヌの人びとに案内を頼んで調査する中で、異なる文化をもつアイヌの人びとの理解に努めます。武四郎は蝦夷地調査のかたわら、アイヌ語を積極的に勉強しました。そして、誰から命令されたわけでもなく、個人の意志でおこなった3度の蝦夷地調査を通して、蝦夷地を支配する松前藩の圧政や、豊富な海産物に目をつけた商人たちによって、アイヌの人びとがおかれている過酷な状況を知ったのでした。
※北海道の北にある南北に細長い島は、現在ロシア領でサハリンと呼ばれています。
国境が明確でなかった江戸時代はカラフトと呼ばれたり、幕府は北蝦夷地と呼び、島の南部にはアイヌ民族が暮らしていました。
第2回の調査では江差から日本海側の海岸線を歩き、宗谷からカラフト(今のサハリン)南部を調査。宗谷に戻ると、オホーツク海側の海岸線を歩き、知床岬へと達します。これにより、北海道の海岸線をほぼすべて歩きました。
武四郎は第2回調査の後、冬を越すために江差にいました。頼山陽の息子である頼三樹三郎も江差へと来ていました。そして、出会った二人は、冬至の日に人を集めて「一日百印百詩の会」を催すことになります。その名の通り、一日かけて百の印と、百の詩を完成させるもので、篆刻(石に文字を彫ってハンコを作ること)を得意とする武四郎と、漢詩を得意とする三樹三郎がその技を競い合うものでした。
第3回は函館から船に乗り国後島、択捉島を調査しました。