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「プライドは捨てました」黄金世代の苦労人・元日本代表MF橋本英郎の今

元川悦子スポーツジャーナリスト
まもなく42歳になるが、サッカーへの情熱は不変だ。(本人提供)

黄金世代の仕事人の生きざまとは?

 99年ワールドユース(現U-20W杯=ナイジェリア)準優勝で世界を驚かせた79年生まれの黄金世代。このうち今も現役を続けているのは小野伸二(札幌)、遠藤保仁(磐田)、稲本潤一(相模原)くらいだ。

 彼らと同期の橋本英郎(FC今治)は当時、大阪市立大学に通いながら、偉業を遠目に見ていた。ガンバ大阪の練習生としてプロを目指していた彼は「すごいなと思ったけど、他人事でした」と苦笑する。

 あれから22年。41歳になった男は自身を磨き上げ、2005年にガンバの初優勝などに貢献。日本代表にも選ばれ、今季はJリーグ2位の最年長得点記録を作るまでになった。

「努力は報われる」と信じ続ける勇敢でタフな橋本の今に迫った。

大学に通いながら未来を模索した日々

「天王寺高校3年生だった97年にU-19日本代表合宿に呼ばれたことがあるんです。伸二や中田浩二(鹿島CRO)、ヤット、1つ下のイチ(市川大祐=清水U-15監督)、2つ下の阿部(勇樹=浦和)とは初対面だったんですけど、一番衝撃的だったのが満男(小笠原=鹿島アカデミーアドバイザー) 。『大船渡ってどこやねん』『プロ行くの?』『鹿島入るんか。すごいな』と質問しまくった印象があります(笑)。

 彼らは99年にワールドユースで準優勝して、2002年日韓W杯のメンバーにもなったんですけど、そうしたことは僕にとっては他人事(苦笑)。ガンバのジュニアユースから一緒だったイナ(稲本潤一)がブレイクした時も、『時の人になってるわ』と遠目から見ていたくらいです」

 橋本が「別世界」だと感じるのも当然だ。当時の彼は大学生。プロでやっていけるか微妙な立ち位置で就職も視野に入れていたという。

「98年フランスW杯の時が1年生で、同時期に合宿があってテストが受けられず、前期4単位しか取れなかったんです。でも次の年に友達とグループを作って、1人が1教科を極めて教え合う形を取ったら、ものすごく単位が取れた。4年で卒業できるところまで行ったんです。

 でもゼミの先生から『サッカー選手は現役が終わってからが長いし、一般企業に入れるから就職した方がいい』と言われました。2001年はイナがアーセナルに移籍して、ガンバでもチャンスが生まれるかと思ったのに、ヤットと智さん(山口=現湘南コーチ)が移籍してきて、ボランチの出番は少なかった。だから5年目の2002年はプロと就職を両にらみでやろうと決め、卒業を1年伸ばすことに決めました。

 そのタイミングで西野さん(朗=タイ代表監督)が来たんです。徐々に試合にも出してもらえるようになり、自分的にも『サッカーで勝負したい』という気持ちが強まった。それで就職をやめて、プロ1本になりました。その選択が2005年のJ1初制覇につながった。西野さんにも『裏MVP』と言ってもらえたのは嬉しかったですね」

2008年にACL制覇を果たした頃の橋本(左端。写真:アフロスポーツ)
2008年にACL制覇を果たした頃の橋本(左端。写真:アフロスポーツ)

身近にいた自分のプレーモデル

 橋本が目指したのは、優勝仲間であり2つ上の先輩である明神智和(ガンバジュニアユースコーチ)だった。2000年に指導を受けた堀井美晴氏から「おまえは大きくないし、速さもそこそこ。ボール技術もドリブルもメッチャ得意なわけじゃない。全て標準の選手が何で勝負するかと言ったら、ポジショニングとオフ・ザ・ボール。そこで生きていくしかない。明神はそれが特に秀でているから代表に呼ばれてるんや」と言われ、目からうろこが落ちたという。

「自分のボランチの基準は同期のイナでした。身長180くらいあって、走れて強くて技術があったから。高3で(元カメルーン代表FWパトリック・)エムボマと一緒に28試合出場してたし、プロで通用する選手っていうのはああいうレベルなんやなとね。

 その後、ヤットと一緒にやるようになって自分は絶対に同じことはできないと感じた。だからこそ『人が嫌がることをしよう』と肝に銘じながら戦うようになったんです。それは泥臭いプレーだったり、『ここしんどいけど、走らないかん』ってところで走るとか。華々しい仲間が嫌がるようなことを全部引き受けるくらいの気持ちでやったんです。

 2007年に僕を初めて日本代表に呼んでくれた(イビチャ・)オシム監督が『汗かき役』『水を運ぶ人』を重視して、鈴木啓太(株式会社Aub代表)と今野(泰幸=磐田)、自分といったタイプの選手を呼んでくれたのは嬉しかったですね。1つ上のステージで見てもらえるようになりましたから」

「水を運ぶ人」として評価されたオシムジャパン時代(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
「水を運ぶ人」として評価されたオシムジャパン時代(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

岡田さんはドライな人(笑)

 オシム監督が2007年11月に病に倒れ、2008年から岡田武史監督(現FC今治代表取締役会長)が再登板した後も橋本は断続的に代表に招集された。が、岡田体制最初の東アジア選手権(中国・重慶)ではほとんど出番がなく、2次予選・最終予選の戦いが進んでいく過程でもなかなかお呼びがかからなかった。それでも橋本は「2010年南アフリカW杯に出たい」と熱望。しかし、2009年10月のトーゴ戦(宮城)を最後に、日の丸をつける機会に恵まれず、南アの歓喜にも立ち会えなかった。

「岡田さんの時は(2008年11月の)最終予選のカタール戦、2009年のオランダ遠征とか何回か呼んではもらいました。だけど、トーゴ戦を前田遼一(磐田ユースコーチ)とスタンド観戦する羽目になり、その後は一度も呼ばれなかったですね。

 僕は南ア直前の2010年4月にケガで2カ月離脱したんですけど、岡田さんはそのことも知らなかった。『おまえ、なんで試合に出てないんだ』って言われましたからね(苦笑)。天王寺高校の先輩ですけど、やっぱり岡田さんはすごくドライな人。それは名監督の条件かなと感じます」

 手の届かなかった南アW杯では、今治の同僚である駒野友一らアテネ世代が奮闘。本田圭佑(ネフチ・バクー)ら若手も躍動し、彼らを川口能活(U-24日本代表GKコーチ)や中村俊輔(横浜FC)らベテラン勢が支える形で16強入りした。バランスを考えたチーム作りの重要性を橋本は痛感させられた。

「僕が見てきたW杯を振り返ると、2002年はゴンさん(中山雅史=磐田コーチ)と秋田さん(豊=盛岡監督)がいて、2010年は能活さんやナラさん(楢崎正剛=名古屋CSF)たちが支えた。2018年ロシアも長谷部(誠=フランクフルト)とか永嗣(川島=ストラスブール)がいましたよね。みんなの話に耳を傾けられる人間がいるかどうかは、成功するうえですごく大事だと思います。

 2006年は素晴らしいタレントが揃っていたけど、個々のプライドとか個性が際立ちすぎて、まとまるのが難しかったのかもしれない。個人の結果を強く求めすぎていて、チームとして動く発想が薄かったのかなと感じました。サッカーはダイヤモンドみたいな人間の集まりだけでは勝てない。自分もいずれは指導者になるつもりなんで、その鉄則は頭に叩き込むようにしたいです」

FC今治でもいぶし銀の働きを見せている(写真:西村尚己/アフロスポーツ)
FC今治でもいぶし銀の働きを見せている(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

プライドを捨て、J3へ赴いて変わった人生観

 ガンバの黄金期、W杯への挑戦を経て、30代になった橋本はヴィッセル神戸、セレッソ大阪、長野パルセイロ、東京ヴェルディを渡り歩いた。そして40歳を迎える2019年にFC今治に赴いた。代表ではドライに扱われたものの、恩師・岡田さんの「ウチに来てほしい」という誘いを断るわけにはいかない。JFLという4部相当のリーグに身を投じるのは勇気のいることだったに違いないが、「昇格という大目標に向かってチャレンジできる」と彼は移籍を快諾。J3昇格請負人となり、今はJ2を目指して戦っている。

「セレッソから長野に行ったタイミングでプライドは捨てました。セレッソは地元だし、正直、嬉しかった。そのまま関西で引退したいと考えていました。でもセレッソでは出番がなかったし、37歳の半年間を無駄にしたくなかった。『いばらの道』を覚悟してJ3行きを決断したんです。

 長野での半年間は濃密で、立ち振る舞いから結果を出すことまでいろいろ考えました。りんご農園の人と知り合って今も交流を続けていますけど、素晴らしい出会いもありました。人としての器が広がったのは間違いない。その後は関東にも四国にもためらうことなく行けました。

 今治はつねに昇格を目指しているクラブだし、そこにいられるのは大きなモチベーション。2019年11月にJ3昇格を決めたマルヤス岡崎戦で決勝弾を決めた時はホントに嬉しかったですね。愛媛新聞に号外が出て、久しぶりに取材も沢山きました(笑)。その時に比べると、今年の5月2日のテゲバジャーロ宮崎戦でJ3最年長ゴールを決めた時は少し淡々としていたかな(笑)」

「努力は報われる」という信条を大切に

 サッカーをすることが心底好きだという橋本は契約がある限りは現役を続けるつもりだ。その姿勢はカズ(三浦知良=横浜FC)に通じる。5月21日には42歳になるが、黄金世代の現役最年長に躍り出る可能性もゼロではない。最初は別世界だった仲間より高い領域に辿り着けたのは、やはり「努力は報われる」という信念があるからだ。

「すぐに結果が出なくても、努力の過程を認めてもらえる経験を僕はしてるんです。それは僕の大きな自信になってます。自分の生きざまから少しでも『努力は無駄じゃないんだ』と感じてもらえるように、これからも頑張っていきます」

■橋本英郎(はしもと ひでお)

1979年5月21日、大阪府生まれ。ガンバ大阪ジュニアユース、ユースを経て、98年に練習生としてトップ昇格。同時に大阪市立大学に入学し、学業とサッカーを両立させる。2003年春に大学を卒業して、プロに専念。2005年のガンバのJ1初制覇に貢献。2008年アジアチャンピオンズリーグ制覇、FIFAクラブワールドカップ出場など輝かしい実績を残す。2012年にヴィッセル神戸へ移籍し、2015年にはセレッソ大阪へ。2016年夏にJ3の長野パルセイロへレンタル移籍。2017年から2シーズンを東京ヴェルディで過ごし、2019年からFC今治へ。国際Aマッチ15試合出場0得点

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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